二年がたちました。だが、復興への充実の二年だったとは言えないでしょう。原発事故の福島はこれからです。そして、それでも人は立ち直るのです。
昨年の今ごろ、福島の地元紙福島民報の論説責任者は、こんなふうに言っていました。
「福島の人口が減っているのですよ。二百万県民が、原発事故後に三万人も減ったのです」
人口が減るという恐怖は、外からはなかなか分かりません。何か身の細るような、知らないうちに大事なものが消えてゆくような怖さなのでしょう。人口は、昨年も続けて減りました。
◆働き盛りが流出する
総務省の人口移動報告では、昨年の福島県の転出から転入を引いた転出超過は一万三千八百四十三人。前年の約半分。しかし、十四歳以下の子供と、その親世代に当たる二十五〜四十四歳が計約七千人を占めた。福島の未来を支えるべき人たちです。人口減は全国最多、住民票を移さずに県外避難している人も多数います。
原発の事故前、少子化などで毎年五千人ぐらいずつ減っていたのですが、今の理由はもちろん放射線量です。
その怖さは住む者にしかおそらくは分からないでしょう。正しく怖がる、などというのは机上のことかもしれません。
福島市から太平洋へ至る県道を、車でよく通る住人に会いました。こう言いました。
「走っていると、涙が出てくるんです。かわいそうで」
緩やかな峠を越え、飯舘村に入ると景色の印象は一変します。
道沿いの田は無人の枯れ野、家々の縁側の大きなガラス戸には一様にカーテンが引かれている。庭に駐車場に車はない。理髪店も薬局もスーパーも閉まっている。
◆人の権利が侵される
いるべき人がいない。そういう姿を見て、住人は同じ県民として涙がわいてくるというのです。
そこにいるはずの人が避難を強いられ、狭い住宅に住み、慣れない土地で暮らしている。そんな無理と不公平は、本来は人間の権利にかかわるべき事柄です。憲法でいう人権や幸福追求権が奪われてしまっている状態です。我慢は強いられているのです。
放射線量が高いので町に住めない。だから一時的に別の場所に町をつくるというのです。
人口約一万五千人の富岡町は県内避難が一万一千人、県外に四千五百人。いわき市と郡山市の両市に仮の町をつくり、やがては本来の富岡町の低線量地区に町を戻そうとしています。
大熊や双葉、浪江の町も計画しています。人は町とともに、町は人とともに生きるのです。
旧ソ連のチェルノブイリ原発事故では、住民は強制移住させられました。共産主義国家では土地は国家のものだから、移住は国家の意思でなされます。住民に選択の余地はありません。
日本では、もちろんそうはゆきません。国民には一定の権利があるのです。
飯舘村役場は現在、福島市に間借りしています。その臨時の役場で菅野典雄村長はこんなふうに言いました。
「国は机の上で計算しているばかりだ。実態はここに来てみないと分からない。例えば許容放射線量だって、厳密な数字ばかりでは測れない部分がある。人の暮らしを大事にせねばならないところだって出てくるのです」
村長が言いたいのは人間を優先してほしいということです。それが政治の原点だということです。
人の生き方はさまざまです。考え方も人それぞれです。
福島では、福島に残ろうとする人がいて、同時に仕方なく去ろうとする人がいる。その両方ともそれぞれに考え抜いた選択であり、そのどちらにも責められることなどあるはずもない。憎むべきは、そのどちらにも抱かれかねない外部からの差別です。差別とは人間の最も卑しむべき感情です。
◆前よりずっと強くなる
責められるべきは、実態を知らず、支援を不十分なままにしている国などでしょう。繰り返しますが、今の事態は人間の本然的な権利が侵された状態なのです。
復興は歯がゆいほど遅れています。岩手や宮城の津波被災地でも高台移転の合意などは容易ではありません。
しかし希望を見いだすのなら、住民の結束はより増し、住民の自治意識、デモクラシーはより強くなったのだと思いたい。
二年がたちました。被災者、また私たちは前よりずっと強くなったのではないでしょうか。つまり人は必ず立ち直るのです。
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