安倍晋三首相による施政方針演説は「自立」に貫かれた。その大事さは理解するが、自立したくてもかなわない弱者にこそ手を差し伸べるのが政治の姿である。基本を忘れてもらっては困る。
この国会二度目の首相演説である。冒頭、福沢諭吉の「学問のすゝめ」から「一身独立して一国独立する」を引き、「誰かに寄り掛かる心を捨て、それぞれの持ち場で自らの運命を切り開く意志を持たない限り、私たちの未来は開けない」と訴えた。
長期の経済低迷と巨額の財政赤字、本格的な少子高齢化社会の到来、東日本大震災と福島第一原発事故による甚大な被害、周辺諸国の日本領域への挑戦など、日本が直面する課題は多く、深刻だ。
それらを克服するにはどうすればよいのか。自立して懸命に生きる人同士が苦楽を共にして助け合う。被災地での支え合いに感銘を受けた首相は、そうした姿こそが「強い日本」復活の原動力になると訴えたかったのだろう。
自立心を持つことも、支え合って生きていくことも大事なことである。それ自体に異存はない。
ただ危惧するのは自立を強調するあまり、自立できない人が置き去りにされてしまうことだ。苦楽を共にできない人が支え合いの輪の外に置かれてしまうことだ。
首相も演説で「どんなに意欲を持っていても、病気や加齢などで思い通りにならない方々がいる」と指摘した。頑張りたくてもかなわない、立場の弱い人々を支えるのが、政治本来の役割である。そのことを忘れてほしくはない。
社会保障と税の「一体」改革は消費税増税だけが決まり、社会保障制度改革は後回しだ。有識者の国民会議は始動したが、議論の遅れも指摘される。社会保障制度は今のままで、消費税増税だけが強行される事態は見たくない。政治の覚悟が問われる場面だ。
社会保障の在り方について、首相は「自助・自立を第一に、共助と公助を組み合わせ、弱い立場の人にはしっかりと援助の手を差し伸べる」と主張し、民主党は先の党大会で決めた新しい綱領に「個人の自立を尊重しつつ、同時に弱い立場に置かれた人々とともに歩む」と明記した。
ニュアンスの違いはあろうが、個人の自立を重んじ、弱者を支えることでは同じではないか。ならば、社会保障のあるべき姿の議論を急ぎ、夏の参院選前に結論を出し、堂々と国民に問うべきだ。それが政治の責任でもある。
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