昭和五年八月から翌年一月まで、東京の豊多摩刑務所に収監されていたプロレタリア作家の小林多喜二は、私淑していた志賀直哉に手紙を送っている▼「この太陽の明るさは! それはまるで、北海道の春か十月頃をしか思わせません」。東京の冬の日差しに驚きを隠さず、出所したら「必ず一度お訪ねしたいと思い、楽しみにして居ります」とつづっていた▼出獄後、多喜二は奈良に暮らす志賀を初めて訪ねている。地下活動に入った多喜二はその一年三カ月後、築地署で特高の刑事から拷問を受け死亡した。志賀は多喜二の母親に悔やみ状を書いている▼<前途ある作家としても実に惜しく、又お会いした事は一度でありますが人間として親しい感じを持って居ります。不自然なる御死去の様子を考えアンタンたる気持になりました>。悔やみ状は雑誌『文化集団』に掲載されたが、検閲によって<不自然なる>の部分は伏せ字にされた(梯久美子著『百年の手紙』)▼多喜二が亡くなってからきょうで八十年。特高警察が共産主義者の作家を虐殺した事件は、たった八十年前のこの国で起きた出来事なのだ▼若者の非正規雇用が増え、新たな貧困問題が社会問題になった二〇〇八年には、代表作の『蟹工船(かにこうせん)・党生活者』(新潮文庫)が五十万部を超えるベストセラーになった。多喜二は今こそ、読む価値のある作家だ。