バブル期に七千五百円を付けた株価は、三百六十円台に下がっていた。日用雑貨メーカー「エステー」の専務だった鈴木喬さんが社長に就任したのは、金融機関が相次いで破綻した一九九八年だった▼役員に味方はゼロ。何を提案しても拒絶された。不良在庫を捨てろ、という指示も実行されなかった。役員を半減し、八百六十あった商品を二百八十に減らす大なたを振るった▼新商品を年間一つに絞って勝負をかけた。自らがアイデアを出した消臭剤の新製品が年間一千万個を売る大ヒット。その後もヒット商品が相次ぎ、二〇〇五年には株価は二千三百円台に回復し、会社は立ち直った▼近著『社長は少しバカがいい。』(WAVE出版)で、鈴木さんは戦後の焼け野原が原点になった経営体験を書いた。「社長業とは決断業」「勝った瞬間に危機は忍び寄る」「社長は群れちゃだめだ」。危機を乗り越えた経営哲学は腹に落ちる▼東日本大震災後、いち早くCMの自粛をやめ、新しく制作したCMを流した。放射線量を手軽に測定できる装置も採算を度外視して量産した。重苦しい空気を変えたいとの思いからだ▼七十八歳の会長に企業が元気のない理由を尋ねた。「買いたいと思わせる商品を考えられない経営者が最大の問題。世の中が悪いからうちも悪いじゃ、経営者は要りません」。温顔ながら厳しい答えだった。