HTTP/1.1 200 OK Date: Sat, 16 Feb 2013 22:21:07 GMT Server: Apache/2 Accept-Ranges: bytes Content-Type: text/html Connection: close Age: 0 東京新聞:レスリング除外 判断基準はどこにある:社説・コラム(TOKYO Web)
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【社説】

レスリング除外 判断基準はどこにある

 レスリングがオリンピックの中核競技から外れたことは、最近の五輪大会が示す変質の象徴のようにも見える。諸課題に関して何が判断基準となっているのか。一番の問題点はそこだ。

 二〇二〇年夏季五輪の中核競技からレスリングが除外された。国際オリンピック委員会(IOC)理事会の決定である。今後、他の七競技と残り一枠を争うことになるが、実施競技から外れる可能性は高いとの見方も出ている。

 IOCの決定には疑問が残る。予想外の選択だったから、日本のお家芸だから、というわけではない。選択の判断基準そのものに疑問を感じるのだ。

 レスリングは古代五輪からの伝統を持ち、第一回近代五輪から実施されている。普及や知名度に問題があるとも思えない。五輪にふさわしい競技といえる。

 なのに除外された。もちろんレスリングにも問題はあるだろう。組織面での評価が低かったとも指摘される。だが、それらが決定的要因とは言いにくい。そこで浮かんでくるのが、五輪競技をめぐる近年の顕著な傾向だ。

 ビジネス面での成功が最優先される最近の五輪。中核には巨額のテレビ放映権料があり、当然のように「テレビ向きかどうか」が重視される。それはまた「見栄えのよさ」にも直結している。冬季大会にショー的要素の強い種目が次々と採用され、夏季大会でも各競技で時間短縮などの措置がとられてきたのはその表れだ。まずテレビ映りありき、ショーアップありき。今回の決定にも、それが影を落としているように思われる。

 オリンピックはスポーツの祭典であり、スポーツの魅力を幅広く伝えるのがその役割である。時代による競技の入れ替えは必然だろうが、伝統や歴史もかえりみず、ショーアップやテレビ映りばかりが優先されるようになれば、スポーツの祭典としての本来の趣旨がゆがんでしまう。今回の決定にそうした側面はなかったか。疑問を感じるゆえんだ。

 除外候補とみられた競技団体がIOCに対して強力な働きかけを行った半面、レスリングは何もしなかったという指摘もある。が、それは本質ではない。ロビー活動や政治力でこれほど重要な決定が動くのなら、そうしたIOCやスポーツ界の体質こそが問題ではないか。

 考えることの多い今回の決定。それは五輪のあり方そのものも左右する重さをはらんでいる。

 

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