パリジェンヌがそろって「無法者」だったとは、驚きだ。パリには女性のズボン着用を禁ずる条例があり、政府がこの有名無実の禁止令を正式に無効としたのは、つい先日のことという。二百年以上も前に、女性の社会進出を阻むために制定され、一八九二年と一九〇九年に乗馬と自転車に限り着用を認める、と改められた▼してみると、柔道界の先見性は相当なものだった。講道館が初の女子門下生を受け入れたのは一八九三年。パリでズボン禁止令がモノを言っていた時代に、柔道は女性に扉を開いたのだ▼が、女子柔道では長らく試合が禁じられた。世界選手権や五輪への道を開いたのは、米国人ラスティ・カノコギさんだ。その生涯を描いた『柔(やわら)の恩人』によると、彼女は一九五九年、ある大会で優勝しながら、メダルを剥奪された。ただ「女性の出場は想定していない」との理由で▼その悔しさに突き動かされ、後に自宅を抵当に入れてまで初の世界選手権を開催した。彼女がいなかったら、女子柔道が五輪種目になるのは二十年遅れたといわれる▼「こんな思いを後輩にはさせない」という一念で道を開いた先駆者の姿が、必死の思いで監督の暴力を告発した女子選手たちと重なる▼多くの名選手を輩出しながら、全日本柔道連盟には、女性の理事がいない。「女性の参画は想定していない」からなのだろうか。