團十郎死す。歌舞伎界は中村勘三郎丈に続いて、人気役者を失った。だが、市川を祖とする歌舞伎の芸は世界に誇るべき庶民の芸。民衆の中に反骨の心、かぶく心がある限り、その魂は永遠だ。
東京スカイツリーの夜間照明は、毎日交互に色を変えている。「粋」を表す隅田川の水の色、そして江戸紫の「雅(みやび)」は、庶民の心意気。下町の夜を見守るようにそそり立つスカイツリーを見るたびに、歌舞伎十八番の一つ、「勧進帳」を思い出す。
主人義経を守らんと、安宅の関守、富樫の前に立ちはだかった武蔵坊弁慶を。
亡くなった十二世市川團十郎は、決して器用なたちではない。だが、当たり役の弁慶を演じる時はとりわけ、岩のような存在感と安心感、漂う気品と優しさが観客を魅了した。
京都南座西の鴨川沿いに「阿国歌舞伎発祥地」の石碑が、ひっそりと立っている。歌舞伎という芸術は宮廷ではなく、河原から始まった。世界的にも珍しい、庶民文化の華である。
勝った源頼朝よりも、負けた義経。戯作者は庶民の気持ちをくみ取った。摂関家より左遷にあった天神さま、幕府より赤穂義士、侍よりも遊女の側に立ち、実際に起こったばかりの事件も取り入れて、時の権力への批判と風刺を込めた。庶民の声なき声だった。
現在の歌舞伎が大成されたのは、江戸初期の元禄時代、初代團十郎が、荒事と呼ばれる猛々(たけだけ)しいヒーローものを取り入れて、江戸庶民を熱狂させた。市川が歌舞伎宗家といわれるゆえんである。
「にらみ」という宗家に独特の所作がある。襲名披露の口上の席などで「吉例により、一つにらんでご覧に入れまする」と声を絞り出し、片肌を脱ぎ、左手に巻紙をのせた三宝を掲げ、大目玉できっとにらんで見せる。悪霊退散の力があるという。團十郎は江戸の庶民にとって、役者を超えたヒーローそのものだったのだ。
勧進帳最後の見せ場。袖を巻いて富樫が見送る中を、弁慶が花道を去っていく。左手に金剛杖(こんごうづえ)、右手は前に突き出して、左足を上げたまま、右足一本でトントントンと飛び去る「飛び六方」。十二世團十郎は残念にも、飛び六方よろしく立春の花道を退いた。
だが既に雲の上から、悪(あ)しき者、威張る者をにらんでいるに違いない。そしてセリフは、粋と雅の庶民の歌舞伎よ、永遠なれ。
この記事を印刷する