精神科医の中井久夫さん(79)は、阪神大震災後に心の傷がどんな症状を起こすかを調べていて、子どもの時にいじめられた自らの体験が、ふつふつと蘇(よみがえ)るのを感じたという。それは、半世紀後も風化していなかった▼随筆集『アリアドネからの糸』で中井さんは、いじめに陥った者の絶望感を書く。<「出口なし」感はほとんど強制収容所なみである。それも、出所できる思想改造収容所では決してなく、絶滅収容所であると感じられてくる。その壁は透明であるが、しかし、眼に見える鉄条網よりも強固である>▼そして、多くのドイツ人に強制収容所が「見えなかった」ように、おぞましい事態もそれが常態化すれば、日常の風景となり「見えなくなる」。見えていても、見たくない現実であれば、人間の心理は「見えないもの」にしてしまうものなのだと▼大津市の中二男子の自殺を調べていた第三者委員会は、報告書で中井さんの一文を引用しつつ、先生も生徒もいじめを見ながら「見えないもの」にしてしまっていたと指摘した▼それでも、勇気を出し先生にいじめを訴えた子がいた。異変を察知した先生もいた。だが、学校は生徒を救わず、家庭での虐待が原因であるかのように言い募った▼「透明人間」にされた少年の絶望を、思う。いかに不都合な事実でも、きちんと見る。悲劇を繰り返さぬための第一歩だ。