警視庁の発表が裁判で「名誉毀損(きそん)にあたる」と判断された。犯人が不明なのに、警察庁長官銃撃事件を「オウム真理教の組織的な犯行」と公表したからだ。司法手続きを無視する行為は言語道断だ。
警察の役目とは何か。犯罪があれば、捜査し、犯人を検挙する。検察官が起訴すれば、裁判で有罪か無罪が決まる。当たり前の刑事司法の手続きが無視されたとしか言いようがない。判決はそれを痛憤しているように読める。
一九九五年三月末に起きた、当時の国松孝次警察庁長官が銃撃され、重傷を負った事件だ。警視庁は当初から、オウム真理教に目を付け、捜査を続けてきた。
二〇〇四年に「実行犯不詳」で、信者ら四人を殺人未遂容疑などで逮捕したものの、東京地検は嫌疑不十分で不起訴処分とした。起訴するに足る証拠がなかったからだ。この段階で、予断を排して捜査をやり直すべきだった。
だが、公訴時効が成立した一〇年三月末に警視庁幹部が記者会見で「オウム真理教の信者グループが組織的、計画的に敢行したテロ」と発表した。捜査結果の概要も、ホームページに掲載した。
証拠がないのに、なぜそんな発表をしたのだろうか。教団主流派の「アレフ」は、名誉を傷つけられたとして、東京都などを訴えた。東京地裁は「公表は重大な違法性がある」と認めた。「無罪推定の原則に反するばかりでなく、刑事司法制度の基本原則を根底から揺るがす」とも厳しい批判を加えた。当然の帰結であろう。
警視庁は司法の原理原則から、大きく逸脱したのだ。それが作為的だったのは当時、「教団のテロ再発防止のため、捜査結果を国民に知らせるのは公益性がある」と説明したことからも明らかだ。
この裁判の過程でも、公表内容が真実だったかどうかは、警視庁側が主張せず、争点にならなかった。「オウム真理教とアレフは法的に同一でない」という理屈だけで、責任を免れようとした。自らが、後継団体と認定していながら、である。警視庁にとって、必要なのは、むしろ失敗した捜査の検証ではないか。
司法手続きを飛び越えて、警察が恣意(しい)的かつ独断的な発表をすれば、裁判にかけずとも、“犯罪人”はつくりあげられる。
警察は法の執行機関である。それゆえ、真実の追求に真摯(しんし)でなければならない。自己弁護の発表が、信頼を失わせたのである。
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