フィルム映画が消えていく。急速な技術の進歩によるデジタル化によって。対応機材が高価すぎて泣く泣く廃業する地方の映画館も相次ぐ。地域の文化から、映画が遠い存在になってしまわないか。
無声映画からトーキーへ、モノクロからカラーへ。約百二十年になる映画の歴史は、フィルムとともに歩んだ道のりでもある。その様相が一変しようとしている。
国内で唯一、映画用フィルムをつくっていた富士フイルムが今春にも生産をやめる。デジタル化の普及で、需要がピーク時の三割にまで減り、今後も落ち込みが確実だからだ。海外では米コダックが経営破綻した。
デジタル化の進行を元に巻き戻すのは無理だろう。撮影カメラは精度をどんどん上げ、電子編集も便利で容易だ。若者が映画づくりに取り組むのにも手軽である。
それらは、もちろん大きな長所である。他方、デジタル化一辺倒を心配する人たちもいる。フィルムが持つ、色の温かみ、奥行きなどへの強いこだわりを持つ監督やカメラマン、映画ファンだ。
デジタル化が抱える問題の一つは、市場原理を優先しすぎて小さな映画館が除かれていくことだ。大手配給会社やシネコンにとってデジタル化は、人件費や流通費など大幅なコスト削減になる。
一方、良作を扱う名画座や地方の小劇場がデジタルに対応するには、約一千万円の機材導入費がいる。しかし負担が大きすぎる。各地で経営者らが対応を練ってきたが、廃業がやまないという。
あちこちで町の本屋さんも姿を消している。書店も映画館も、地域の“文化施設”の役割を担ってきた。地域独自の伝統、文化は人を結ぶ。行き過ぎた市場原理は大切な糸を断ち切りかねない。
映画づくりの技術、伝承がすたれるのを心配する指摘も多い。
今、撮影現場の下見に行かず、ネット検索で済ますこともあるそうだ。作品が仕上がるまでの制作現場の緊張や一体感までフィルム同様消えていく。関係者が不安がるのももっともだ。
崔洋一監督(日本映画監督協会理事長)は「共存する方がいい」という。昨年は邦画の健闘で少し持ち直したものの、効率化しても、業界の興行収入は下降線の一途だ。
足を運び、見知らぬ人とスクリーンに目を凝らし、耳を澄ます。こうしたファンを遠ざけてはいけない。効率性だけでより分けるより、映画を提供する側みんなで、その将来に知恵を絞ってほしい。
この記事を印刷する