「安全第一」という言葉を考え出したのは、わが国の教育者である−と書いたのは、大正時代に活躍した文筆家の薄田泣菫(すすきだきゅうきん)だ。彼の随筆を集めた『茶話』に、大阪の学校で起きた事件についての一文が収められている▼ある生徒が、校内で懐中時計を盗まれた。校長は生徒を呼び出し、二度と時計を盗まれないための良い方法があると告げる。「方法って、どうするのです」と尋ねる生徒に、校長曰(いわ)く。「時計を持たないのさ。つまり時計なぞ持つから盗まれるような事になるんじゃないか」▼泣菫は、皮肉たっぷりに書いている。<流石(さすが)は教育者で、言ふ事がちやんと理に合つてゐる。そしても一つ合理的に言つたら、時計は持つてゐても、学校へ来さへしなかつたら、盗まれる心配は無い事になる。時計と生徒にとつて、学校は実際危険な所さ>▼体罰を受けた生徒が自殺した大阪市立桜宮高校も市教育委員会も、「安全第一」だったのだろう。この場合の「安全」とは、大人たちの体面のそれであって、生徒の身と心の安全ではない▼体罰を加えた教員は四年前に生徒を平手打ちしてけがをさせたが、厳しい処分は受けなかった。部活での体罰を告発する通報が寄せられても、学校は部員に確かめもしなかったという▼事なかれ主義という宿痾(しゅくあ)に向き合わない限り、学校は「生徒にとって危険な所」であり続けるだろう。