命が粗末に扱われている。この国を見渡すと、そう思われてならない時がある。一人ひとりの命に本気で向き合ってくれるのは誰か。見誤りたくありません。
命の分かれ目で、苦しみ、闘っている人は大勢います。
例えば、原因がわからず治療法も未確立な難病。五千〜七千種もあるといわれています。
名古屋市熱田区の西尾朋浩さん(51)の母親が急に歩けなくなり、みるみる悪化した。一九九五年の夏。あちこち訪ね、東京の病院でやっと告げられた病名は鉛のように重く響きました。
難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)。国内患者は推定八千人。全身の筋肉が衰え、自力呼吸もできなくなる。人工呼吸器などで命はつなげるが「周りに迷惑がかかる」と患者の多くは延命を拒む。彼の母も…。二年半後、他界。
一方で、生きる希望を失わず自らと闘う患者もいる。自力で動けない重症者の窒息を防ぐには、昼夜の介護、タンの吸引が欠かせない。まして独り暮らしや老老介護など弱い立場ほど、公的支援のありようが命の鍵を握るのです。
ところが現実の運用は自治体ごとの裁量の差が大きく、公平ではない。命と真剣に向き合う姿勢が求められるのに。一体、なぜ。
ALSの公的介護の実態をめぐり和歌山地裁が今春、原告の七十代の老夫婦側に立った判決を出しました。和歌山市の介護内容の決定を「(不十分で)裁量権の逸脱で違法」と厳しく認定。それは憲法二五条が保障した生存権に反する、としたに等しい判断でした。
難病は一例です。自殺者が十四年連続で三万人を超えた(今年途切れそうです)事実。過労死や虐待死…。歴史を重ね、国自体が病んできたのではないか。原発事故の被災・避難者は象徴的です。
母を亡くした西尾さんは3・11直後、ALS患者らの救護に仲間と被災地を目指した。「支えられるだけではない」自覚を持つ弱者も少なくない。医療などの政策に財源の裏づけは必要だが、目の前で苦悩する人の命を見限ることとは次元が違う問題です。
「命を守る」と各党とも口はそろえますが、人権、生存権の訴えは、あまり聞こえてきません。公約で「自助・自立を第一」という党もありますが、行き過ぎは命の“格差”を広げかねない。
国民の命に真剣に向き合ってくれるのは誰か。自身のためにも、見逃してはいけない選択です。
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