HTTP/1.1 200 OK Date: Tue, 11 Dec 2012 01:21:09 GMT Server: Apache/2 Accept-Ranges: bytes Content-Type: text/html Connection: close Age: 0 東京新聞: 取材のため、海軍兵学校の名簿を調べていた時、おやっと思う…:社説・コラム(TOKYO Web)
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【コラム】

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 取材のため、海軍兵学校の名簿を調べていた時、おやっと思う人の名前に目が留まった。俳優の小沢昭一さんだ。当時、当たり前のように軍国少年に育った十六歳は兵学校の予科に進み、半年もせずに敗戦を迎えた▼実家のある東京・蒲田に戻ると、一面が焼け野原。祖母は空襲で亡くなっていた。灯火管制が解かれて、焼け跡にぱっと明かりが灯(とも)った時には、「あー、ありがてぇなー」と涙が出るほどうれしかった、と本紙の連載「この道」で述懐していた▼舞台や映画での役者、歌手、ラジオのパーソナリティー、俳人、大道芸や放浪芸の研究者…。多彩な分野で才能を発揮し、軽妙洒脱(しゃだつ)なエッセーでも読者を魅了した小沢昭一さんが八十三歳で亡くなった▼一九七三年から始まったラジオ番組「小沢昭一的こころ」は、昨年五月に一万回を迎える長寿番組になった。人間味あふれる独特の語り口は、ラジオの魅力を再認識させてくれた▼戦争で家を焼かれ、貧乏のどん底を経験してきた小沢さんは、民主主義をもじって「貧主主義」を唱えてきた。「僕には今日の豊穣(ほうじょう)ぶりはどうもしっくりこない。ほどほどの貧乏、ほどほどの豊かさがちょうどいいんです」(『思えばいとしや“出たとこ勝負”』)▼日本人がまだ貧しかった時こそ、世の中は元気で、輝いて見えたという。その時代の空気を知る人がまた一人去った。

 

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