フィンランド第二の都市タンペレで開かれたリサイタルの最後の曲だった。右手が次第に遅れだして動かなくなる。左手だけで弾き終え、お辞儀をしてステージを去ろうとした時、床に崩れ落ちた▼北欧を拠点に活躍してきたピアニストの舘野泉さん(76)が、脳出血で右半身不随になったのは十一年前だ。一命は取りとめたが、右手のまひは残った。音楽に見捨てられた、という失意の日々が続いた▼一年半が過ぎたころ、留学先から戻った長男から左手のためのピアノ譜を受け取ったのを機に左手で弾いてみた。ピアノと体が一体化した世界が広がる。音楽の表現には弾き方などは関係ないと悟った。以来、友人の作曲家に新作を依頼し、二〇〇四年には東京などでコンサートを開き、活動を再開した▼先週、東京都内で開かれた「東燃ゼネラル音楽賞」(洋楽の部)の贈呈式に舘野さんの姿があった。記念演奏では、作曲家の平野一郎さんから贈られた「微笑(ほほえみ)ノ樹(き)」を初めて演奏した▼二年ほど前、初めて接した舘野さんの演奏に、樹の内に隠れた仏を彫る仏師を連想したという平野さんが、十二万体もの神仏像を彫った江戸時代の僧円空をイメージした。深い静謐(せいひつ)の中、時に激しい感情が立ち上る▼引き込まれているうちに、どの手で弾いているのかは意識から消えた。優れた音楽は演奏そのものが強く語りかけてくる。