その体に食い込んだ弾や石の破片が取り出されるのには、およそ十年の歳月がかかったという。おととい八十七歳で亡くなった外間守善(ほかましゅぜん)さんの体には、沖縄戦の記憶が文字通り刻み込まれていた▼外間さんは、米軍戦史が「ありったけの地獄を一つにまとめた」と記した那覇北方の前田高地での激戦を経験した。所属大隊八百人余のうち生き残ったのは二十九人。外間さんも銃弾と手榴(しゅりゅう)弾の破片を浴びた▼手術で摘出したものもあったが、多くは身体が毒を吐くように皮膚から押し出された。風呂場で体を洗っていて、ポロリと転がり出る。そのたびに前田高地を思い出す▼記憶は、体の傷よりも長く、外間さんを苦しめ続けた。戦争の話をするのも聞くのも耐えがたい日々。ふとした瞬間に蘇(よみがえ)る爆音や閃光(せんこう)、戦友の遺骸が放つ腐臭。関係者の聞き取りを重ね『私の沖縄戦記』を刊行したのは、八十歳を過ぎてからだ▼外間さんは、琉球の文化や歴史を総合的に研究する沖縄学の第一人者となり、沖縄の短歌「琉歌」の紹介にも努めた。<国守(まぶ)らと思て/散り果てしあはれ/鎮魂(しずたま)の願(にが)い/肝(ちむ)に染(す)めら>は、自作の歌。自決した兄守栄さんの「守」の字と、疎開船・対馬丸とともに海に散った妹静子さんの「しず」という音を詠み込んだ▼戦争の凄惨(せいさん)を心身に刻んだからこそ、平和憲法への熱い思いを胸に抱えたまま旅立った。