畳の部屋からは、大きな糸瓜(へちま)の実がぶら下がっているのが見える。芙蓉(ふよう)や鶏頭の花も…。正岡子規の没後百十年だったきのう、東京・根岸の子規庵(あん)は、多くの人でにぎわった▼寝たきりでも見える場所に、と妹が庭に草花を植えた。<糸瓜咲て痰(たん)のつまりし仏かな><痰一斗糸瓜の水も間にあはず><をととひのへちまの水も取らざりき>。痰を取る薬だった糸瓜が絶筆になった三句に詠まれている▼「悟りといふ事は如何(いか)なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」(病床六尺)。病と闘いながらも、自らを客観視できた人だから言える言葉だ▼「病気の境涯に処しては、病気を楽むといふことにならなければ生きて居ても何の面白味(おもしろみ)もない」(同)。三十四歳十一カ月の短い人生を駆け抜けた日本文学の変革者は、生きることをとことん楽しもうとした人だった▼「子規の仕事は俳句と短歌だけにかかわるのではない。それは近代の日本語全体にかかわるものだった」。俳人の長谷川櫂(かい)さんは、自著『子規の宇宙』でそう指摘している▼愛用していた机が子規庵の一室に残されている。病気で伸ばせなくなった左ひざを入れるために板をくりぬいた特注品だ。この机の前に座るたびに、子規が残した遺産の大きさをあらためて思い知らされる。