昭和天皇の側近だった徳川義寛(よしひろ)侍従は、敗戦前の七月二十八日の日記に歌を書き留めていた。<降伏の条件なるものと黙殺との相つぐ報道に破局を思ふ>。この日の朝、新聞はポツダム宣言の厳しい内容を伝えていた▼日本領土の占領や完全な武装解除、即刻の無条件降伏…。受け入れなければ徹底的に破壊する、という条件だ。政府の反応は鈍い。破局は避けられないと、徳川さんは直感したのだろう(菅野匡夫(すがのまさお)著『短歌で読む昭和感情史』)▼人類初の原子爆弾が広島に投下されたのは九日後。鈴木貫太郎首相が「黙殺する」と発言したことが、投下の引き金になったと信じている人は今も多いが事実は違う▼当時のトルーマン米大統領からの原爆投下の命令は、ポツダム宣言の前にすでに実施部隊に届いていた。十万人以上の民衆を無差別に虐殺した原爆には“免罪符”が必要だったのだろう▼広島できのう開かれた平和記念式典に、トルーマン元大統領の孫クリフトン・トルーマン・ダニエルさん(55)の姿があった。「祖父の決定は今ここで判断できない」と評価は避けながら、被爆者のメッセージを米国で広げたい、と語った▼本土決戦を回避し、結果的には数百万人の命を救ったという「神話」は根強い。原爆使用を決断した政治家は一人だけだ。その近親者が被爆者の声を届けようとする姿に一筋の光明を見る。