米国の作家ポール・オースターが、『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』を始めたのは一九九九年のことだ。直訳すれば「国民の物語事業」か▼人々がひっそりと抱える「作り話のように聞こえる実話」「紙に書きつけたいという気になるほど大切に思えた体験」を募ったら、一年で四千通も集まり本になった(訳書・新潮社)▼ある心臓外科医は、七十代の男に難手術を施した。三日後に心停止。三時間後に何とか蘇生したものの、奇妙なことが起きた。男は二十年余の記憶を失い、自分を五十歳と思い込んでいた。のちに外科医は知る。男は酒乱で妻に暴力を振るっていたが、記憶を失ってからは酒も飲まず、愛情深い夫として、静かに人生を閉じた▼作家の高橋源一郎さんらによる日本版の試み『嘘(うそ)みたいな本当の話』(イースト・プレス)もある。落語家、立川談春さんのごく短い物語。<自分しかいない広い露天風呂に、いきなりロバート・デ・ニーロが入ってきた>▼私も一つ。大学時代、徹夜で試験勉強をしていて、寝てしまった。電話が突然鳴った。「もしもし」と女性の声。「すいません間違いました」。腹を立てつつ時計を見たら、試験開始三十分前。遅刻はしたけれど落第は逃れた▼誰にでも、誰かに伝えたくなるような大切な話がある。そこかしこで「わたしの物語」が読み手を待っている。