八十六歳の死刑囚が再び、最高裁に判断を仰いだ。半世紀も前の名張毒ぶどう酒事件。再検証は容易でない。最高裁は「疑わしきは被告人の利益に」の原則に則(のっと)り、自ら速やかに判示すべきだ。
「裁判所には罪を犯した者は逃してはならないというような気持ちが根底に強くあるのではないだろうか」。最高裁の元判事が自身の著作で、そう書いている。
最高裁に身を置いた人ですら、日本の司法は無実の人を罰してしまうことへの恐れよりも、国の治安の安定を優先していると感じたのだろう。
日本の裁判は有罪率が99%を超える。まして確定判決を見直し、裁判をやり直す再審の扉は重い。三審制が四審、五審となってしまうからだ。
最高裁も古くは「無罪とすべき明らかな新証拠がない限り再審は認めない」という態度だった。だが「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則は再審でも適用されるという「白鳥決定」を出した。
新証拠を出すのは前提だが、他の証拠と総合的に評価して、確定判決の事実認定に合理的な疑いを生じさせれば足りるとした。
先週、奥西勝死刑囚の再審を認めなかった名古屋高裁の決定は、再審可否の審理とはいえ、毒物の科学鑑定に終始し、この肝心な刑事裁判の基本をおろそかにしたきらいなしとはいえなかった。
事件は半世紀も前のことだ。証人や捜査関係者には亡くなった人も多く、検証不能の事柄は多々ある。当初の裁判をみても、一審と二審の判決はほぼ同じ証拠を見て無罪と死刑に分かれた。
冤罪(えんざい)とは国家の罪である。裁判所が誤判をすれば、司法の信用は失墜し、何より被告の人格人生を粉々に打ち砕いてしまう。
英国の有名な法格言は「十人の真犯人を逃がしても、一人の無辜(むこ)の人間を罰してはならない」と述べる。神ならぬ身の人間が冤罪を生まないために学んだ経験的な知恵である。
それとは逆の考えが日本の司法には、なお根強いのだろうか。下級審が「上」に異を唱えにくい雰囲気でもあるのか。最高裁は今度こそ自判すべきである。
高齢の死刑囚は拘置所の外の病院で病に苦しんでいる。もし獄中死のような結末を迎えるのなら、司法は、その役割を放棄したにも等しい。ましてや裁判員時代である。この死刑囚を裁く司法こそが今、試されているのだ。
この記事を印刷する