新藤兼人さんの監督・脚本による昨年公開の映画『一枚のハガキ』は、映画誌「キネマ旬報」の邦画一位など数々の映画賞に輝いた。よく考えてみると、これはただごとではない▼撮了の時、人間としては九十八歳、映画人としては七十数年目、監督としては四十九作目、脚本家としては多分、二百何十作目か。そういうタイミングで「最高傑作」の評さえ出る作品を生み出せる表現者は広い世界にもまずいない。残念だが、その奇跡のような一本が遺作となってしまった▼戦争、性、老い…。新藤さんの追いかけたテーマだが、出身地・広島の悲劇を描いた『原爆の子』や自己の戦争体験に基づく遺作もしかり、自分の生きた時間から逃げず、映画でそれを跡付けようとした生涯だったようにも思える▼先に奇跡と書いたが、むしろ、金子兜太著『種田山頭火』で知った漂泊の俳人、若き日の言葉の方がこの映画人にはふさわしいのかもしれない。<人生は奇蹟(ミラクル)ではない、軌跡(ローカス)である>▼ひたすら渇いた土に水をかけ続ける農民を描いた代表作の一つが、『裸の島』。小紙に連載された回想録に、その作品に事寄せて映画作家としての思いを語った件(くだり)がある。<人の心はみな渇いている、生きるために渇いている、それに一杯の水をかけたいのだ>▼どれほどの人がその“水”に潤されたか。もう次回作がないのがつらい。