日本が敗戦後の占領から独立を回復して六十年。日米安保条約で米軍は駐留を続け、沖縄には広大な基地が残る。独立国とは、を今なお問い掛けている。
今から六十年前の一九五二年四月二十八日。前年九月に結んだサンフランシスコ平和条約(講和条約)と日米安全保障条約が発効して、日本は再び独立を果たした。占領期間は六年八カ月あまり。
当日朝に発行された中部日本新聞(現中日新聞)は一面に、横山大観画伯が雲間にそびえる山頂を描いた「雲ひらく」を、当時珍しかった多色刷りで大きく掲載し、独立の喜びを表現している。
◆成功国家の一つに
同時に新生日本が歩むであろう道の険しさも指摘している。われらが先輩の筆による社説は「祖国独立の前途」と題してこう記す。
「喜びは喜びとして、どうして祖国の再建を達成するかに考えおよぶと、その前途の決して容易でないことがしみじみと感じられる。わが国独立の前途には、対外的にも対内的にもたんたんたる大道が開けているわけではない」
独立後の道のりは平たんではなかったが、一時は国内総生産(GDP)世界第二位となる経済成長を遂げた。粗悪品だった日本製は今や良質の代名詞だ。国民皆保険制度を導入し、平均寿命は男女総合で世界一位に。
先の大戦の反省から武力による威嚇、行使を放棄した日本国憲法の下、平和国家の看板を掲げる。
日本は戦後、最も成功した国家の一つに挙げられてもよい。
それを成し遂げられたのは、先人の努力、日本人持ち前の勤勉さ、器用さはもちろんだが、西側陣営の一員として日米安保条約の下、経済活動に専心できたことと無縁ではなかろう。
アジア・太平洋地域の局地的な紛争も、戦火が日本に直接及ぶことはなかった。
◆切り離された沖縄
日本本土にとって平和と繁栄を享受する転機となった講和条約の発効は沖縄には新たな苦難の始まりだった。この条約で沖縄は本土から切り離され、米軍による統治「アメリカ世(ゆ)」が続いたからだ。
沖縄では四月二十八日を「屈辱の日」と呼ぶという。米軍統治の苛烈さを想起させる。
琉球政府の上部組織である米国民政府などのトップには米陸軍の軍人が就いた。沖縄に住む人たちの人権は脅かされ続け、住民自治は著しく制限された。
米軍は沖縄占領とともに基地を拡大し、土地収用に抵抗する住民には「銃剣とブルドーザー」による強制収用で応じた。
皮肉なことに、沖縄での基地拡大の一因が、五五年、東京都砂川町(現立川市)で起きた米軍立川基地の拡張に反対する砂川闘争など、本土での反米反基地闘争だ。
岐阜、山梨両県に駐留していた米海兵隊は五六年、沖縄に移駐した。安保条約発効から改定される六〇年ごろまでに、本土の米軍基地は四分の一にまで減り、逆に沖縄では約二倍に増えた、という。
住民が抵抗する本土から抵抗できない沖縄に。日々の騒音や相次ぐ事故、米兵による犯罪など基地負担の押し付けにほかならない。
七二年の沖縄の日本復帰後も、基地負担の重圧に沖縄が苦しむ状況は変わっていない。在日米軍基地の約74%は今なお沖縄県内に集中している。基地を押し付けたが故に、沖縄県民以外の多くの日本人がこの現実を忘れてしまっているのではないか。
日米安保条約が日本を含むアジア・太平洋地域の平和と安定に不可欠で、日本国民が条約存続を選択するのなら、日本に提供義務のある米軍基地の負担は、国民ができる限り等しく負うべきだろう。
しかし、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先をめぐり「北海道から鹿児島までヤマトで探してもらいたい」と訴える仲井真弘多沖縄県知事の切実な声に、政府も国民もどれだけ真剣に耳を傾けてきたというのか。
きのう発表された日米外務、防衛担当閣僚による共同文書は、名護市辺野古への県内移設が「これまでに特定された唯一の有効な解決策」と現行案を堅持した。
海兵隊基地は沖縄から動かせないという思考停止に、日米ともに陥っているのか、それとも日本側が米側に国外・県外移設を言い出せないでいるのか。
◆祖国復帰したが…
佐藤栄作首相は六五年、戦後の首相として初めて沖縄を訪問した際、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わったとは言えない」と語った。
祖国復帰は実現した。しかし、異民族支配の象徴だった米軍基地が今なお沖縄県民の生活を威圧する限り沖縄での「アメリカ世」は終わらない。同胞である日本政府がそれを変えられないのなら、本土においても同様である。
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