閉塞(へいそく)感に覆われた日本であっても「人としての尊厳」が守られるよう、暗闇から世界を見る政治が求められます。憲法第一三条の重みが増しています。
「生存」を考えるとき真っ先に頭に浮かぶのは、国民に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する憲法第二五条です。福祉制度の土台とされるこの規定は、経済的に困窮している人たちにとって命の綱となっています。
近年の経済不振、東日本大震災や原発事故の影響で、生活保護の受給者は過去最高記録を更新し続け、昨年十二月の時点で二百八万人余に達しました。
◆個人として尊重される
しかし、福祉の内容は財政の制約を受け、実際には「人間としての最低限の生」しか保障されません。現に、自民党は生活保護切り下げを議論しています。
目を転じます。生きるためには経済的基盤が欠かせませんが、人は物質的な満足だけのために生きるのではなく、精神的な充足感も必要です。
憲法第一三条には「すべて国民は、個人として尊重される」とあります。一人一人が人格的に自律した存在、「自らの生の演出者」として自分らしく生きる事を尊重されることで個人の尊厳が守られるのだ、と解されています。
同条後段には「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、(中略)立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあります。
ここでは「生命、自由及び幸福追求の権利」を人格的自律のために重要かつ不可欠な権利として保障し、国政の基本とすることを定めたのです。
全体としての「その人らしさ」は、人格の核となる部分をさまざまな要素が包んで形成されます。憲法制定者はその形成を国政が支えることを求めました。
◆立ちはだかる現実の壁
第二五条と第一三条をともに機能させてこそ「尊厳ある生」が保たれるのです。
二〇〇一年五月、熊本地裁はハンセン病患者の強制隔離を違法とした判決で「人として当然に持っているはずの人生のありとあらゆる発展可能性を大きく損なったのは、居住、移転の自由を定めた憲法第二二条にとどまらず一三条にも違反する」と述べました。
隔離を定めた法律は廃止されましたが、日本社会を第一三条に照らしてみるといろいろな問題が浮かび上がります。
雇用問題一つとっても、社会へ巣立とうとする若者たちの前に、35%が派遣やパートなどの非正規雇用(一一年平均、総務省調べ)という厳しい現実の壁が立ちはだかります。
雇う側の都合で安易に使い捨てにされる不安に脅かされているのでは、キャリアを重ね、将来展望を描くどころではありません。多くの労働者の人としての尊厳を無視して、日本経済は成り立っているのです。
大学生たちは、「使いやすく役に立つ人材を早く囲い込みたい」企業の思惑に振り回されて、三年生のうちから就職活動に走り回っています。若者が落ち着いて勉強して知識を蓄え社会への適応能力をつけ、人格を磨くべき大学教育が形骸化しつつあります。
東日本大震災の被災者、原発事故の被害者はいまだに三十四万人が避難所、仮設住宅などで避難生活を余儀なくされ、生活再建の見通しが立たないまま焦燥を募らせています。
政治、行政はこれらの人々の命をつなぐことでよしとしているかのように見え、「人としての尊厳」「自分らしさ」の尊重にまでは目配りが及びません。
現行憲法は押しつけられた憲法といわれることがありますが、日本国民は主権者、憲法制定権者として第九条その他の条文の位置づけや社会のあり方を自ら考え、それにしたがって国家を形成してきました。憲法を実質化してきたのは日本人自身といえます。
いまこそ一三条にも命を吹き込み、二五条と一体で国政の基本にしなければなりませんが、政治家をはじめとする日本の指導者たちにいま最も欠けているのは現場感覚です。
暗い所からは明るい外を見通せても、明るい所からは暗闇の内部が見えません。暗闇に身を置いて外部世界を見る視座を確立しないと、国民の幸福追求の権利を理解するのは難しいでしょう。
◆現場感覚の欠如で迷走
松下政経塾の出身者が枢要ポストを占める民主党政権の迷走は、現場感覚の欠如を物語ります。橋下徹・大阪市長の「維新政治塾」など政治家による新たな政治塾開設も盛んですが、「塾のお勉強」で国民目線の政治ができるとは思えません。政治家は市民の海の中で学ぶべきなのです。
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