一年。三百六十五日。被災地にも、そうでないところにも、一様に流れる時間。途方もなく多くの思いが詰まった特別なこの一年。私たちは忘れません。
塩屋岬の灯台が見守る福島県いわき市の薄磯海岸に、カモメの群れが遊んでいます。
あの日津波になぎ倒された今は無人の集落に、傷だらけの民家が二、三軒。廃虚になった中学校の水のないプールには、校庭に積み上げられたがれきの山が崩れ落ち、一年という時間の堆積の重さを感じさせました。
◆最近になって苦しく
海側の校舎の外壁に「祝第40回東北中学校バレーボール大会出場」と書かれた懸垂幕が、下がったまま。私たちは元気です、きっとここへ帰ってきますと、海に言い聞かせるように。
その薄磯海岸で約三十年、喫茶店を営んでいたという鈴木富子さん(58)は「時間が過ぎれば過ぎるほど、津波の記憶が鮮明になってきた。最近になって、ここが苦しくなってきた…」と、左胸に手を当てました。
避難所から借り上げ住宅へ。夜を待ち、朝を迎えるだけの暮らしの中で、ふとわれに返ったとき、鈴木さんの小さな肩に不意にのしかかってきたものも、一年という日々の重さでしょうか。
「思い出すのはつらい。でも、忘れられるのは、なおつらい」
四月には市内の別の地域で、喫茶店を再開できるめどが立ちました。不安と希望、そして、今語りたい言葉が混ざり合いながら、自分の中にわき上がるのを、鈴木さんは感じています。
市内で古着のリサイクルに取り組むNPO法人ザ・ピープルは震災後、被災者の支援活動を幅広く手がけています。
「気が付けば、目の前に以前とは全く違ったかたちのふるさとが広がっていて、その悲しい姿を見つめ続けた一年でした」
代表の吉田恵美子さん(54)は、そう言って声を詰まらせました。
津波と放射線が引き裂いた地域のつながり、人の心を、もう一度紡ぎ直したい。
吉田さんは今、都内のメーカーと連携し、耕作放棄地で有機栽培の和綿を育てる「いわきオーガニックコットンプロジェクト」を進めています。
綿畑の周囲には、太陽光パネルや小水力発電所を配置します。
傷ついた地域をガーゼで包み、原発に依存しないライフスタイルを福島から示すこと。それは、巨大で理不尽な力に対する彼女なりの挑戦なのかもしれません。
◆大切なものはいのち
金成清次さん(29)は、いわき市内の焼き肉店で働くフリーター。福島第一原発から三十キロ圏内の久之浜地区で、職を失い、有り余る時間を持て余す若者たちとボランティア集団を結成し、がれきの片付け、掃除、引っ越しの手伝い、ペットの捜索…、とにかく何でもやりました。
高齢の被災者に「ありがとう」と言われるたびに、仲間たちの表情が輝くようになりました。
「それまで考えていなかったことを、考えるようになった一年でした。九割方未使用だった頭を使うようになり、大切なことがいっぱいわかった一年でした」と金成さん。一番大切なのは何かと尋ねると、迷うことなく「いのち」と答えてくれました。
「傍(かたわら)」。ドキュメンタリー映画監督伊勢真一さん(63)の最新作のタイトルです。一年間、毎月十一日に、友人の住む宮城県亘理町と福島県飯舘村に通い詰め、記録し続けた作品です。
「宮城から福島へ、そして宮城へ、被災地の被災者の傍での一年。それは、無慈悲な仕打ちを前にした『いのち』に寄りそうことだった」「映像を撮るということは、『忘れない』ということなのだ」と。
被災地であるとないとにかかわらず、特別な重さを持った一年が過ぎようとしています。
私たちは前へ進まなければなりません。でも、忘れてはならないものがある。被災者の傍らに立ち続け、被災地の傍らを歩き続けたい。「絆」という言葉や文字を、“今年の漢字”に終わらせてはいけません。
◆大丈夫、そばにいる
天災も原発災害も、人ごとではありません。鈴木さんの胸の痛みや吉田さんの悲しい気持ち、金成さんが気付かされたことなども、いつか、私たち自身のものになるやもしれません。
被災者の傍らに立つということは、自分自身の地域や暮らしや隣人に向き合うことと、同じなのかもしれません。私たちは、寄り添うことを忘れません。
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