俳優の仲代達矢さんは、父を八歳で亡くし、貧しさと飢えの中で住まいを転々とした。敗戦で価値観を豹変(ひょうへん)させた大人たちをまったく信用できなかった▼いつも腹をすかせ、内気で人見知りが激しいコンプレックスの塊のようだった青年は、ふとしたきっかけで俳優座の養成所の試験に臨む。パントマイムは試験官の前に出ただけで膝が震え、頭は真っ白。ペーパーテストは白紙で提出した。なのに、二十倍を超える競争率を突破できた▼後に幹部に聞くと、演技は下手でもいいから背が高い男と声の大きい男を選んだという。一人だけ陰気に目をぎょろぎょろさせている男がいた。それが仲代さんだった。そして、「それは個性だよ」と▼「基本的にドラマは、人間のコンプレックスで物語を構成している。反吐(へど)が出そうな屈辱感も、ぶつけようのないほどの怒りも、無駄な経験は一つもなかったのだ」と仲代さんは自著『遺(のこ)し書き』に書いている▼この連休中、晴れ着姿や慣れないスーツを着た新成人を見掛けた。大人になることの喜びと戸惑いが、そのはにかんだ笑顔から伝わってきた▼若い時、自分に自信を持てないのは当たり前。トップ営業マンの多くは口下手が故に、独自の工夫や努力を重ねていると聞く。人生に無駄なことはない。役者でなくても、仲代さんのいうコンプレックスの引き出しはいつか役に立つ。