福島第一原発の事故で多くの人々は、日常が破壊されました。十数万人もの避難者は県内・県外に散り散りです。つながりを求める声を聞きましょう。
うっすらと雪が残る五日夕、中古のトラックが福島市内の農作物直売所にやってきました。荷台には一トン余りの温州ミカン。七日の初売りに間に合わせました。「元気か」と待ち受けた人々が声を掛けました。
愛媛県伊予市の渡部寛志さん(32)が約千三百キロもの距離を走り、運んできたのです。妻(29)と七歳と三歳になる女の子も窮屈な車から降りてきました。
◆避難を転々、愛媛へ
「四日夜に愛媛を出発して、瀬戸大橋を渡り、高速道路を延々と…。二十一時間もかかりました」と語る渡部さん自身が、原発の避難者です。福島県南相馬市の自宅は、原発から十二キロにあり、警戒区域に含まれます。
「家の二百メートルまで迫った津波で、目前の二つの集落は残らずなくなりました。妻と子は裏山の農作業小屋で一夜を明かし、親類宅に身を寄せました。私は消防団員でもあり、翌日は行方不明者の捜索にあたっていました。そのとき、原発が爆発したのです」
コメや卵、野菜をつくる専業農家でした。原発事故はその生活を一変させました。
「翌日に郡山市の姉の家へ、3号機の爆発後は、会津若松市の母の実家へと避難しました。長女が小一になる昨年四月上旬に松山市へと移りました。『生きる場』を原発で奪われたと思っています」
農業を営むため、昨年夏に瀬戸内海から五キロほど入った中山間地に農地と空き家を見つけました。
「借りたのはミカン畑です。地主さんからは『ミカンは儲(もう)からないから、キウイをやれ』と勧められました。でも、キウイは福島でも栽培されています。郷里でつくれない果物をと思いました」
◆家族さえ分断した現実
田んぼも借りていますが、コメを福島に運ぶつもりはありません。放射性物質の検出や風評被害で戸惑いの渦中にある農家の心情が浮かぶからです。「コメを持ち込めば、福島農民のプライドをずたずたにしてしまうでしょう」
福島県によれば避難者数は、県外で約六万二千人、県内で約九万六千人にのぼります。その大半が原発事故による避難者にあたるとみられます。県人口もいまだに減り続けています。大勢の人が「生きる場」を失ったのと同然です。
もともと被災地は二世代、三世代の同居が多い地域でした。でも現役世代は県外の親類を頼って移転し、お年寄りは県内の仮設住宅に残るケースが目立ちます。「自分が重荷になる」と感じていると聞きます。苛酷な現実です。
地域のつながりはむろん、家族まで分断してしまったのが、原発事故のむごさです。
ミカンでつながりを持ちたい渡部さんも内心は複雑です。
「仮設住宅にもミカンを運び、喜んでもらいましたが、私は落ち込みもしました。自分だけしたいことを始めたのではないか。自分勝手ではないか…。故郷を捨てたわけではないけれど、気が重たくなりました」
仮に南相馬市の家が国の新基準で居住が認められたとしても、すぐに帰るつもりはありません。元の土地で農業を営む限り、放射線量が高い山間部から水が流れてくるからです。
「子どもへの影響は心配です。いずれ故郷に戻りますが、それは娘が高校を卒業してから。自己判断に任せようと思います」
悩める避難者の気持ちを政府はどう受け止めるでしょう。昨年末に原発事故の「収束宣言」を出し、汚染土壌などの中間貯蔵施設を原発のある双葉郡内に建設する方針を打ち出しました。
まるで事故の幕引きのため、既成事実化を急ごうとする非情さがうかがえます。人の心まで「処理」できません。葛藤を続ける住民たちの心を逆なでし、怒りを増幅させるばかりでしょう。
渡部さんはさらに故郷とのつながりを深めようとしています。
「柑橘(かんきつ)類は多種類あります。イヨカンやデコポン、アマナツ…。種類を細かく組み合わせれば、九カ月間も福島まで出荷できます。これから開墾し、苗も植えます」
◆「秋には黒字に」と焦り
悩ましいのは収入が上がらず、東京電力の補償の見通しも不透明なことです。「今年秋には黒字化したい」と焦りを語ります。経済的な補償は当然ですが、同時に故郷や家族とのつながりが分断された人々の支援策にも国はもっと取り組むべきです。
トラックの荷台にはミカンが残っています。渡部さんが向かう先は古里の南相馬市。避難中の両親や農業仲間と新年会で再会するのが楽しみです。
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