ことしの日本の最大の出来事は、悲しいことですが東日本大震災と、それに続く原発事故でした。しかしそこに見たのは、人間の強さでもありました。
大震災の起きた日、東北から遠い所もゆらりゆらりと大きく揺れました。その直後のテレビの映像で、私たちは見たこともないような惨事の発生を知ったのでした。
私たちに少々意外でもあったのは外国の報道ぶりでした。速報で定評のある米国CNNの女性記者は、岩手県大槌町の商店が無料で食べ物を配ったことを紹介し、恐ろしい現実の中での日本人の冷静な行動は気高いと評して世界に伝えていました。
◆世界を驚かせた日本人
他の外国メディアも被災者らの忍耐強い行動を一種の驚きをもって伝えるので、日本人が日本人をあらためて見直したものでした。現実には福島などで避難した無人家屋への空き巣などもあって、自警団が回りもしましたが、世界一般から見るならば、被災者の秩序ある行動は発見に値するようなことでもあったのです。
その日本人を驚かせ、また喜ばせもしたのが、米コロンビア大学名誉教授で日本文学者のドナルド・キーン氏でした。大震災のあと日本国籍取得と日本永住を決めたのです。
キーン氏は、一九二二(大正十一)年、ニューヨーク生まれ。日米開戦に伴い米軍で日本語教育を受け、戦後京大に留学する。
震災のあとの東北での講演で「私は平凡な日本人になりたい」というようなことを話されました。文学者の彼は、もちろん日本および日本人の鋭い観察者でした。日常を一番正直に写す日記類の研究もしていた。講演の中で、彼は作家の高見順の日記(「敗戦日記」)を引きます。
その高見の日記は一九四五(昭和二十)年三月の東京大空襲のあとの上野駅の被災民の列を見て、こう記している。
◆権力も財もないひとり
「何の頼るべき権力も、財力も持たない。黙々と我慢している。そして心から日本を愛し信じている庶民の、私もひとりだった」
たとえすべてを失っても、再び仕事を始める。財はなくとも忍耐がやがて道を開く。同じ境遇の仲間がいる。新しい日々は古い日々をもとに始まりそうだ。そういうような普通だけれど強く生きる人々の一人で私もありたい、とキーン氏は言うのでした。
だが、もう少し想像を広げてみましょうか。文学者キーン氏、人間キーン氏が大震災の中に見たものとは、普通の日本人にとどまらず、もっと広くより普遍的な人間の強さ、素晴らしさではないかとも、思うのです。極限にあって初めて気づかされる人間存在そのものと言えばいいでしょうか。
今年はじめ、世界の目は中東にくぎ付けになりました。
エジプト・カイロの、その名も解放を意味するタハリール広場に集まった民衆は素手でした。実弾を撃つ治安警察に流血覚悟で立ち向かい、革命を成し遂げた。我慢に我慢を重ねてきた普通の人々の人間的品位と威厳とが勝利した瞬間でした。シリアでも同じことが起きました。
シリアという秘密警察国家に潜入した欧州の記者は、民衆と軍の衝突を見て、思わずこう口走りました。…見てください。彼ら民衆は驚くべきことに武器をもっていません。
デモは欧州でも米国でも起きました。日本では福島のお母さんたちが、国の放射線対策の甘さに業を煮やして霞が関に詰めかけました。人間の未来をかけた闘いなのです。脱原発集会もありました。
主義主張はもちろん人さまざまにある。それは利害や、確執を生む。しかし今年、私たちが見たものは、人間の醜さよりも素晴らしさ、また崇高さだったのではないでしょうか。日本では、それは不幸にも3・11という大きな危難が現出させたのですが、私たちはそこに希望と力と自信も見いだすこともできたのです。
◆私たちは助け合おう
危難に遭い、また運動の中で人は見知らぬ人々と出会いました。ボランティアや集会など。震災での私たちの社説の見出しは「私たちは助け合う」でした。果たしてその通りになったのです。助け合う、そのことの一つひとつが私たち人間の誇りです。二〇一一年という年は不幸でしたが、後世に伝えるべき年となったのです。
東北は雪の降り積むころ。日中でも気温が氷点下の日があります。被災者たちの闘いは、年を越えます。それはしずかだが火を燃やし続けるような熱く粘り強い闘いです。私たちも奮闘しよう。日本がこんな閉塞(へいそく)状態だから、私たちそれぞれがその内なる火を大いに燃やそうではありませんか。
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