一九四一年の日米開戦から七十年を迎えた。無数の命を奪った戦争を繰り返してはなるまい。海軍兵学校に学んだ軍国少年たちは今、何を語るだろう。
雨戸を開けたら、遠くの大阪湾が軍艦で満ちていた。三六年二月下旬だったという。芦屋(兵庫県)の山手に住んでいた上仲博さん(82)は当時、六歳だった。
「後になり知ったのですが、二・二六事件が起こり、これを『反乱』と断じた海軍が、艦隊を東京湾と大阪湾に派遣したのです。軍艦を見たのは初めてでした」
◆国のための死は当然
日中戦争が始まった翌年にあたる三八年五月には百隻を超える連合艦隊が大阪湾に集結した。
「天皇陛下ご臨席の観艦式があったのです。夜は全艦が電飾で満ち、華やかでした。私の頭の中は軍艦、軍艦でいっぱいでした」
日米戦争が始まった十二月八日は遠足の日だった。「国民学校」と呼ばれた小学六年の朝である。
「出発の時、校長先生から戦争が始まったと聞きました。京都の天王山からの帰り道で、大阪の梅田駅に『ハワイ空襲』の号外が張り出してありました。『ついにやったか』と、それは快感でしたよ。友達と大興奮しました」
まさに戦争一色で育った少年にも、その後の戦況悪化は察せられたという。四五年三月には東京に続き、大阪と神戸が空襲に遭った。芦屋の高台から大都会が焼けるのを目にした。旧制中学生のとき自ら選択したのが、海軍兵学校への入校だった。
「その時分はお国のために死ぬのは当然でした。日本が追い詰められていたのですからね」
海軍兵学校は海軍士官の養成機関であり、終戦の年の春に入校した上仲さんら七十八期は最後の海兵生にあたる。四千人を超える軍国少年たちは、全国から選ばれたエリート集団でもあった。
◆閉塞感を打ち破る戦果
本紙は七十八期生の千四百人余りにアンケートを実施し、三百数十人から回答を得た。戦後になって、公務員や会社員、研究者、医師など各分野で活躍した人が多かった。高度成長の“牽引(けんいん)者”も既に八十代前半になった。
千葉県の柳沢忠昭さんは「日米開戦の前に自分にも世間にも、もやもやとした空気があった」という。「日中戦争が泥沼化し、解決の見通しが立っていませんでした。物資不足など、国の統制で国民生活が圧迫されてもいました。鬱積(うっせき)が募っていたのです」
この閉塞(へいそく)感を打ち破ったのが、日米開戦でもあったのだ。真珠湾での戦果に国民挙げて喝采した。圧倒的な国力の差がありながら、戦争に導いた責任は当然、政治や軍にあろう。国民の戦意をあおり立てた言論機関も、あらためて自責の念を深くせねばならない。
アンケートで新憲法への感想を求めると、「理想主義で戦争はなくならないとの歴史の教えから賛成できません」(神奈川県の深川宗光さん)といった改憲論。「成立過程がどうであれ、九条は世界に通じる宝として守っていきたい」(大阪府の狩野輝男さん)などの護憲論に二分された。
終戦で価値観が大転換したという人もいた。東京都の奥平耕造さんは「米英撃滅を叫んだ人がデモクラシーと言うのですから…。戦争そのものがいけないと思いました」と語った。三重県の梅田徹さんも「ノーモア軍国主義。戦争はもう御免」と綴(つづ)った。
平和は人類の最大テーマである。われわれに課せられるのは戦争体験を風化させず、平和を守る責務であろう。平和をどう保つかが今後、試される。
埼玉県の木暮賢三さんは改憲派だが、「歴史に学ばない民族は滅びるという格言どおり、歴史を踏まえ、アジア諸国と良識ある外交関係を保ちたい」と願う。
確かに歴史は未来の教科書だ。外交は人の手をこぶしから、握手に変える古来の知恵である。
福岡県の御筆吉則さんは「国連中心の全方位外交、国際貢献の不断の努力」を訴える。静岡県の児玉堅次郎さんは「世界の共同体の中で共存できるよう、役に立つ(日本の)特色を確立すべきではないか」と記した。
現代の日本も先が見えない閉塞感が社会を覆っている。中国の台頭に向き合い、アジア諸国が軍拡にしのぎを削る中で、「日本はこのままでいいのか」と憂う声も高い。政治の力、言論の力、世論の力が問われるときだ。
◆ナショナリズムの台頭
東京都の福地創太郎さんの手紙はこう語る。「かつての日本の戦争を正当化し、偏狭なナショナリズムの台頭がみられる。戦後民主主義の超克などと称して、事実上の否定に連なる動きが強い」
新たな戦いに国民が快哉(かいさい)を叫ぶことがあってはならない。元軍国少年たちの体験に学びたい。
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