米国ハワイの真珠湾を奇襲した攻撃隊の隊長を務め、<トラ・トラ・トラ>(我(われ)奇襲に成功せり)を打電した淵田美津雄中佐(当時)は数奇な人生を送った▼戦後、四十代半ばでキリスト教に帰依し、伝道師として米国内を布教に歩いた。伝道中、真珠湾の戦艦などで戦死した米軍将兵の遺族や脚を失った元軍人とも対話した▼信仰に傾倒する姿は戦友たちに批判されたが、まるで気にかけなかった。戦争の愚かさ、憎しみの連鎖を断ち切ることが自分の後半生の使命であるとの信仰上の確信があったからだろう▼一九七六年に七十三歳で亡くなった後、膨大な原稿が発見され、四年前に発表された。山本五十六連合艦隊司令長官のミッドウェー海戦の指揮ぶりを「凡将」と批判していたことや、GHQ最高司令官を解任された後のマッカーサーとの会談などが興味深い▼「戦場では、沢山(たくさん)殺した方が勲章にありつける」と述懐する一方、「遺族たちを思いやって、胸のうずくのを覚えていた」とも書き残していた。信仰に救いを求めたのは、染みついた軍人の倫理と贖罪(しょくざい)意識の間で、引き裂かれそうになったからではないか▼開戦の扉を開けた淵田は昭和二十年九月二日、東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ上での降伏調印式にも立ち会い、国家の落日を見届けた。きょう八日は日米開戦から七十年。日本にはこんな軍人もいた。