史上類のない凶行に走ったオウム真理教の刑事裁判が終わった。なぜ事件が起きたのか法廷に答えはなかった。解答を探る作業は社会が引き受けねば。
地下鉄サリン事件をはじめ、数多くの凶悪犯罪の裁きは事実上終結した。しかし、事件はまだ幕を下ろしてはいない。特別手配の男女三人が逃げたままだ。
さらに、オウム教団の流れをくんだ二つの団体が依然として活動している。主流派「アレフ」と分派した「ひかりの輪」だ。
双方合わせて全国に三十二カ所の拠点があり、信者は千五百人を数える。一連の事件を知らない若い世代に浸透し、信者を増やしているとみられ、気掛かりだ。
◆効率化と真相解明と
団体規制法に基づく観察処分は来年一月に期限が切れる。看板を掛け替えても、麻原彰晃死刑囚への帰依を強めているならば、監視の手を緩められまい。
警察当局の強制捜査から実に十六年余りがたった。長い歳月をかけて重い判決が下されたが、多くの謎が残された。
法廷では、信者らが悔悟の情を示したり、麻原死刑囚を非難したりする場面がままあった。しかし、首謀者の麻原死刑囚は沈黙を守った。それが結果として信者らの言い分の信ぴょう性に疑念を生じさせ、責任の押しつけ合いにおとしめたようにも映る。
麻原死刑囚は「救世主」を自任していた。それが妄想であれ、思い切って宗教観を語らせる価値はあったかもしれない。首謀者としての生の言葉を引き出す最善の努力を怠ったという批判に、裁判所はどう応えるだろう。
確かに、遺族や被害者から裁判の長期化を憂う声が上がった。だが、審理の効率化や迅速化を優先するあまり真相解明の役割が切り捨てられはしなかったか。
◆「事件記者」の勇気を
オウム教団が引き起こしたような一筋縄ではいかない事件の背景にこそ、社会がしっかりと向き合うべき大事な問題が潜んでいるように思えてならない。
警察当局とメディアにも学ぶべき重い教訓が突きつけられた。
坂本堤弁護士一家殺害事件では、自宅から教団バッジや血痕が見つかったのに、神奈川県警は自発的に失踪したと思い込んだ。
この事件を「過激派の内ゲバ」を原因とみる誤報があった。公安情報を特ダネとして扱った。警察の見立てに引きずられ、必要な裏付け取材を怠った結果だ。
松本サリン事件でも、長野県警は第一通報者の河野義行さんの自宅を捜索して取り調べた。捜査の見込み違いが地下鉄サリン事件を防げなかった背景にある。
警察のリーク情報をうのみにして、河野さんを容疑者扱いする報道を続けた過ちもあった。河野さんを取材した地元記者が「犯人とは思えない」と報告したにもかかわらずだ。
「警察記者」はいても、独自の視点で取材する「事件記者」はいなかった。河野さんの“冤罪(えんざい)”を生んだ体質は改善されたのか。
坂本弁護士一家殺害事件や松本サリン事件は想像を絶したがゆえに、オウム教団の仕業と分かるまでに時間がかかった。それはメディアが宗教団体を取材対象外としていたのも一因だ。
抗議活動やビラ配布、訴訟といった直接行動は、オウム教団の言論封じの常とう手段だった。事件の真相に迫る勇気と覚悟、そして「事件記者」としての姿勢を肝に銘じたい。
なぜオウム教団はヨガ道場から暴力集団へと化したのか。なぜ信者らはやすやすと凶行に加担したのか。素朴な疑問への回答さえ、裁判は十分に用意できなかった。
今でも元信者らの相談に乗っているという真宗大谷派の僧侶中下大樹さんの話を聞いた。
オウム教団が誕生して事件を引き起こした時期は、拝金的な風潮に覆われたバブル期をまたいでいた。信者らは居場所として家庭や学校、職場、地域ではなく、明らかに教団を選んだ。
元信者の一人は「勤務先の上司に『おまえの代わりはいくらでもいる』と怒られた。なぜ生まれてきたのか悩んだ」と打ち明けたという。自分を丸ごと受け入れてくれたのはオウム教団だった。
◆居場所探しの重み
信者には理科系のインテリ層が目立った。論理や理屈の世界に居場所がなければ、非科学的で神秘的な世界に見いだそうとするのも自然なのかもしれない。
「殺すのは誰でもよかった」と若い犯人が供述する事件が後を絶たない。犯人の身近にオウムのような教団がいて、手元にサリンがあれば、いつでも悪夢はよみがえるだろう。
社会が事件からどんな教訓をくみ取り、次世代に伝えるのか。裁判が投げ掛けた課題は重い。
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