来年の「ぎふ清流国体」で、県外からの有力なスカウト選手が県勢の35%を占める実態が明らかになった。国体では開催地がメンツをかけて優勝を続けることが常態化している。考え直してみたい。
JR岐阜駅を降り立つと、「ぎふ清流国体」の大きな看板が目に飛び込んできた。来年九月の開幕まで一年を切り、県内八十九の競技場では、国体レベルに改修する工事が進んでいる。
清流国体の総事業費は百六十五億円。そのうち、助っ人を含む強化選手の遠征や合宿費が二十七億円。県内企業などが雇用した約百五十人の助っ人選手が優勝の原動力と期待される。四十六年前の岐阜国体で炬火(きょか)の最終走者を務めた古田肇知事は本紙の取材に「開催する以上は何としても目指したい」と、総合優勝にかける意気込みを語った。
日本のスポーツの祭典とされる国体は一九四六年に始まった。六四年の新潟国体以降、開催地が優勝してきた。例外は二〇〇二年の高知国体のみで、東京都が優勝。高知は十位。当時の橋本大二郎高知県知事は「開催すれば天皇杯を獲得するというのはおかしい」と公言していた。露骨には助っ人戦略をとらなかったのだろう。郷土の活躍を願う県民の思いは尊いが、知事の方針に「立派な決断」との意見もあったという。
優勝至上主義について、関係者は「メンツ」や「慣習」を口にする。だが、国体は都道府県対抗であり、県外選手の力を借りて優勝するのはいびつだ。力と技を競うスポーツで出来レースのような開催地の優勝は興ざめでもある。
かつては開催地が変わるたびに転籍する選手が問題になった。昨年の千葉国体では、居住や勤務の実態がないとして山口県の選手三十五人が資格違反となり、日体協は参加資格を明確化した。助っ人選手には競技人生が伸びる良い面がある一方、開催地や企業が国体後、選手生命や生活をどこまで支えていけるかも別の課題として浮上している。
ぎふ清流国体で国などの負担は3%未満。岐阜県は職員給与をカットしており、どの自治体も財政難だ。開催地一巡目の一九八七年までは、国体がインフラ整備を支えた面もあるが、持ち回りで自治体に巨額な財政負担を強いる運営方法も見直しが必要だ。
各自治体が、持てる人材と財源の下で全力を尽くし、地域のスポーツ振興を図っていく。そんな国体に変革していってほしい。
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