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「ええじゃないの原発なくてもええじゃないの」と踊り歩く人がいる。「原発なくせ。即時廃止しろ」とシュプレヒコールをする人もいる。「げんぱつじこまえのふくしまにかえりたい」というプラカード[記事全文]
いわゆる日の丸・君が代裁判で、最高裁が口頭弁論を開くことを決めた。「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱するように」という校長の職務命令に従わず、東京都教委から停職処分[記事全文]
「ええじゃないの 原発なくてもええじゃないの」と踊り歩く人がいる。「原発なくせ。即時廃止しろ」とシュプレヒコールをする人もいる。「げんぱつじこまえの ふくしまに かえりたい」というプラカードを掲げる子どももいる。
おととい、東京・明治公園で開かれた「さようなら原発」集会は、主催者発表で6万人を集めた。圧巻だったのは、その規模よりも参加者の多様性だ。
労働組合や平和団体だけでなく、高齢者、学生、女性、子どもたちが練り歩く。のぼりやゼッケンの主張も、さまざまだ。とにかく言いたい、思いを伝えたい。そう願う人々が、あちこちから集まってきた。
人々が横につながり、意見を表明することは、民主主義の原点である。民主主義とは、ふつうの人々が政治の主人公であるということだ。国の場合は、議会制による間接民主主義とならざるを得ないが、重大局面で政治を、そして歴史を動かすのは一人ひとりの力なのだ。
米国の公民権運動を勇気づけたキング牧師の「私には夢がある」という演説と集会。ベルリンの壁を崩した東ドイツの市民たち。直接民主主義の行動が、国の政治を動かすことで、民主主義を豊かにしてきた。
日本でも、60年安保では群衆が国会を取り囲んだ。ベトナム反戦を訴える街頭デモも繰り広げられた。それが、いつしか政治的なデモは沖縄を除けば、まれになった。政治的な訴えが通らない現実に、あきらめが先に立ったからだろうか。
しかし、東日本大震災から半年あまり、この国のどこか深いところで変化が起きている。とりわけ「脱原発」のうねりは、かつてない勢いで広がる。
もはやプロの政治家に任せてはいられない。生活、命、そして子どもたちの未来をどうするのか。同じように差し迫った不安や不満を抱く人と手を携え、政治にもの申そう。そんな思いが共鳴しあう。
「私らには民主主義の集会や市民のデモしかない。しっかりやりましょう」。呼びかけ人の一人、作家・大江健三郎さんの言葉が象徴的だ。「脱原発」は、私たちの民主主義に新たな一ページを刻む動きに見える。
今までにない形で人々の手をつないでいくインターネットの普及も、集会を活気づける。
この絆を太くし、現実の変革につなげるには、もっともっとたくさんの手が要る。新聞や放送などのメディアが変化に注目し、政党や政治家も問題意識を共有することが欠かせない。
いわゆる日の丸・君が代裁判で、最高裁が口頭弁論を開くことを決めた。
「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱するように」という校長の職務命令に従わず、東京都教委から停職処分を受けた元教員2人がその取り消しを求めた訴訟だ。1人は過去に5回、もう1人は起立斉唱命令違反だけで3回の処分歴がある。
東京高裁は今年3月、「処分が適切かつ合理的だと評価するものではない」と異例の付言をしつつ、「教委に裁量権の逸脱や乱用があるとはいえない」と述べて請求を退けている。
民事訴訟法は「上告の理由がないと認めるときは、口頭弁論を経ずに上告を棄却することができる」と定めている。つまり弁論を開くということは、この高裁の結論が見直される可能性が高いことを意味する。
教育現場や公務員の規律をめぐる議論に大きな影響を与える判断になるのは間違いない。
君が代問題で最高裁は、5〜6月に相次いで言い渡した判決で「起立斉唱を命じることは思想・良心の自由を保障した憲法に違反しない」と判断した。一方で「間接的な制約となる面がある」と指摘し、多くの裁判官が処分は抑制的であるべきだという見解を示していた。
大阪府の橋下徹知事が、命令に複数回違反した教員は免職とするルールの確立を唱えていた時期だ。私たちは社説で、最高裁が説く全体像を理解して慎重に対応するよう求めた。
しかし知事が率いる大阪維新の会は、「同じ職務命令に3回違反した者は直ちに免職」などの内容を盛り込んだ条例案を、きのう始まった府議会に提出する方針だ。11月に想定する知事と大阪市長のダブル選挙の争点にする構えともいう。
ここは立ち止まって考え直したほうがいい。弁論を開いた後に言い渡される判決の中で、最高裁がどんな見解を示し、結論を導き出すのか。そこをしっかり見極めるべきだ。
処分を行政の裁量に任せず、条例で定めることに意義があると橋下氏はかねて主張する。だが硬直した制度にすることにどれほどの利益があるのだろう。処分はその公務員がした行い、動機、背景、結果、処分が社会に与える影響などを総合的に判断して決めるのが道理ではないか。条例に書かれているからといって、行き過ぎた制裁が認められるわけではない。
橋下氏は弁護士資格をもつ。最高裁が弁論を開くと決めたことがどんな意味を持つか、十分わかっているはずだ。