江戸幕府の天文方を務めた暦学者の渋川春海に、こんな伝承がある。快晴の日、釣りをしようと訪れた海辺の村で、舟を出すよう命じると、船頭が断った。「きょうは二百十日。必ず時化(しけ)る」▼けげんに思っていると、水平線上に現れた一点の雲がみるみるうちに空を覆い大風雨に。春海はこの体験から立春を起算日にした「二百十日」を一六八四年の貞享改暦で雑節として記載するようになったという(岡田芳朗著『春夏秋冬暦のことば』)▼もともとは、伊勢の船乗りたちが、台風が到来し始める二百十日を経験から「凶日」としていて、全国に普及していた伊勢暦にも記載されていた。それが官暦にも採用されたのかもしれない▼二百十日は新暦ではたいがい九月一日。今年はその少し前に、日本列島に近づきながら、足踏みしていた大型の台風12号がきのう午前、高知県東部に上陸した▼橋をのみ込む濁流や床上に浸水した住宅の映像を見ると、早く通り過ぎてくれと叫びたくなるが、ゆっくりと進む台風は、西・東日本の広い範囲で大雨や暴風の猛威をふるった▼二百十日という雑節は、中国や朝鮮半島の暦にはない。台風から逃れられない島国で、大地を耕し、海の恵みを受ける民衆が育んだ知恵だった。西洋文明のように自然の克服を目指すのではなく、共存する豊かな思想を先人たちは持っていたのである。