「天災は忘れたころにやってくる」。そう言った明治生まれの物理学者寺田寅彦が震災後、再読されています。人間と科学の関係の問い直しなのです。
想定外といわれた巨大地震と津波。人災の指摘もある原発事故。かつて、人知には落とし穴のようなものがあると繰り返し書いていたのが、夏目漱石の弟子だった寅彦でした。
高知出身。熊本の五高(現熊本大)でのちの師となる漱石に英語を、ローマ字論で有名な田丸卓郎から物理を学ぶ。二人の師からは勉学だけでなく、学問の楽しみ、また人間として幅広い感化を受けたことでしょう。
◆龍ケ崎地震に遭って
東京帝大に進み、物理のほか気象や海洋学へも興味を広げています。漱石の小説、「吾輩は猫である」に出てくる理学士寒月君は彼をモデルとしています。心象に残る人柄だったのでしょう。
彼に「断水の日」という短文があります(岩波書店「寺田寅彦全集」所収)。
大正十年十二月八日、茨城県南部を震源として起きた地震(龍ケ崎地震)の直後書かれました。マグニチュードは推定7。震源近くで家屋損壊や道路亀裂があり、東京の寅彦の家では水道が止まったのでした。
「…晩にかなり強い地震があった。それは私が東京に住まうようになって以来覚えないくらい強いものであった」
関東大震災の二年前で、東京の人々はさぞ驚いたことと想像されます。水道は断水。寅彦は幸い隣家の井戸を借りるのですが、あいにく雨がひどく水道工事が一向に進まない。断水は続く。
寅彦はこう書きます。…住民の不便や不満は分かるが、不眠不休の工事の人の心持ちを考えるとそれも気の毒でならない。
◆原爆という罪を知る
次いで、こう唱えます。…この程度の地震で水道が壊れ、そう言えばわが家の客間の電灯のスイッチは材料が粗悪で故障している、日本の科学水準の遅れと低さをよく認識すべきだ。
英国帰りの漱石同様、日本に厳しい。しかし、科学者として事実認識が正確であるにすぎないとも言えます。ほめすぎかもしれないが、人に優しく事実に厳しい。つまり常識と良識の人なのです。
何事でもそうですが、科学者が人間的に豊かであってほしいことはいうまでもありません。
歴史的な例を挙げましょう。原爆のことです。その開発は物理学の成果であり悲劇でした。初実験に成功したオッペンハイマーは戦後、米国の工科大学の講義で胸中をこう述べました。
「俗でなく、ユーモアなしで誇張もなく、ありのままの感覚として物理学者は罪を知ったのです。そしてそれはなくすことのできない知見なのです」
彼は米国の水爆計画に反対し公職追放されます。科学者の良心に殉じたのです。アインシュタインをはじめ、原爆にかかわった物理学者たちの痛恨悔悟はあまりに有名ですが、彼らは良心をひたすら取り戻そうとしたのです。
米国スリーマイル島事故は作業員の過誤が原因とされたが、作業員に言わせると<電算機のデータは紙に印字されて出てきた。しかし異常が多くて印字が追いつかない。飛ばして印刷しても、今何が起きているか分からなかった>。
もしそうなら、親切なシステムがあだになったようなものです。設計者はメルトダウンが起きるほどの異常多発時の印字速度をどれほど想像していたか。
チェルノブイリ事故もソ連政府は作業員のミスを原因としたが、原子炉の設計不備をいう学者もいました。異常時に核反応は抑制へ進むべきなのに、逆に高まる可能性があったというのです。設計に盲点はなかったのでしょうか。
◆身の丈を知る科学者
福島第一原発事故の場合、国策の名の下、いわゆる原子力ムラが失敗可能性をことごとく無視してきた結果だともいえます。科学の新たな知見は一体どれほど検討されたのか。その内部にいた科学者たちは良識と常識をどれほど持ち合わせ、またどれほど忘れていたのか。酷かもしれないが、事故の核心の一部にはやはり科学者個人の関わり方の問題があったのではないか。なぜなら、それなくしては科学者の責任も誇りもないではありませんか。
話を寅彦に戻すと、断水に対し彼は井戸を掘ると決めます。当時の科学水準から導いた結論。たかが一本の井戸ですが、当時おごりはじめた日本文明に鋭くうがたれた井戸だったのかもしれません。身の丈を知った科学者寅彦。そこを今、読み直したいのです。
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