長崎の被爆体験を書いた『祭りの場』で芥川賞を受賞した林京子さんが、世界初の核実験場、米ニューメキシコ州トリニティ・サイトを訪れたのは一九九九年秋。敗戦から五十四年がたっていた▼二百人ほどの見学者とともに爆心地に向かい無言で歩く。広野には立ち木は一本もなく、鳥や虫の鳴き声も聞こえない。物言わぬ死んだような大地で、全身が震えたという▼戦争の世紀の終わりに、もう八月九日とは縁を切りたいと訪ねた「原点」の地ではっきり分かった。「どうあがいたって核は人類と共存できない」ということを(『被爆を生きて』)▼多くの友人が甲状腺や肝臓がんなどで若くして亡くなった。原爆症と認定されなかった。一人一人の死や自らの体験を「運命」と考えたくない林さんは、エッセーでこう書いている▼「昭和二十年八月九日の被爆は、現実の私の不幸である。そして宿命でも運命でもない。人間の智恵(ちえ)で考え、計算された不幸である」。冷戦に向かう米ソの暗闘の中での原爆の投下。落とした側も、落とされた側も、責任を負うべき人間が無傷でいたことへの静かな、毅然(きぜん)とした異議申し立てだと思う▼きょうは六十六回目の長崎原爆の日。林さんが問い続けた体内被ばくの問題は、原発事故と直接つながってくる。いま読み直すと、言葉は新たなリアリティーをまとって立ち上ってくる。