樹齢六百年の「影向(ようごう)の松」で知られる東京・小岩の善養寺に供養塔がある。天明三(一七八三)年八月五日の浅間山の大噴火で、江戸川下流まで数多くの遺体が流され、十三回忌に当たる寛政七年に建てられたという▼「噴火に続く山津波、七十余村を押し流す、水火の責めにさいなまれ、数万の命みまかりぬ、哀(かな)しきむくろ谷を埋め、漂い出て幾十里、流れて武州小岩村、毘沙門州へとうち上がる…」。二百回忌につくられた和讃(わさん)に、惨状が淡々と描かれている▼溶岩流が吾妻川の渓谷をせき止めて、決壊した濁流が村々を襲う。遺体は利根川や江戸川下流まで流れ着いた。死者は千人を超えた。噴き上げられた大量の火山灰は、風に乗って世界中に広がった▼浅間山の噴火は冷夏と日照不足による凶作をもたらし、民衆は飢えに苦しんだ。商業を重視し、民衆が富むことで幕府の財政を立て直そうとした老中田沼意次は失脚し、緊縮財政、風紀の取り締まりを唱える松平定信によって、寛政の改革が断行された▼浅間山の天明の大噴火からあすで二百二十八年。巨大な自然災害は政治の流れを変え、歴史を塗り替える。二万人を超える犠牲者を出し、経験のない原発事故に直面している政治は、変わらなくてはならないはずだ▼与野党の皆さん。被災者を置き去りにしたまま、いつまで政局ゲームを続けるつもりですか。