少子高齢化が急速に進んでいる。国勢調査の速報値などによると大震災の被災地、東北の人口減少と高齢化が際立ち、復興への影響が懸念されている。
震災後だいぶたって家族の無事がわかった。実家は山際に面した農家。山内明美さんが、ふるさとの宮城県志津川町に東京からバスと知人の車を乗り継いで帰り着いたのは、被災の二週間後だった。
実は父は間一髪だった。町の消防団の副団長で、津波の警戒の際は水門を閉めるのが役目だった。警報が出て急いで向かう途中、消防署員たちに「行くな」と止められ命拾いをしたという。後になって、消防署員九人が死亡したり行方不明になったと知った。
◆例のない減少ペース
明美さんのふるさとは目の前にリアス式の志津川湾が広がり、海辺のすぐ近くまで北上山地の山並みが迫る漁業と農業だけで食べているような小さな地域だ。高齢化が進み、若い働き手や子どもは減る一方。陸の孤島ともいわれた町は二〇〇五年、平成の大合併で南三陸町と名を変えた。明美さんも十年前、合併前の町を離れた若者の一人だった。
私たちの国は、他国に例を見ない急速なペースで少子高齢化が進んでいる。人口動態は五年ごとに国勢調査をして実態を把握する。
総務省はきのう、被災地(岩手、宮城、福島)の復興に役立てるため他県に先行して三県分についてのみ確定集計値を出した。
岩手県は〇五年よりさらに4・0%、福島県が3・0%人口が減り、政令指定都市の仙台を抱える宮城県も0・5%減だ。すでに公表されている速報値で全国を比較してみても、総人口は〇五年からほぼ横ばいだが、三十八道府県で人口が減少。中でも東北六県の人口減少は際立つ。「老年人口(六十五歳以上)」の割合も東北各県が上位に並ぶ。いわば過疎と高齢化の代表格といえる地に大震災が襲いかかったといえる。
ただ、少子高齢化は近代化や経済発展に連れて、ほとんどの先進国が通る道でもある。多産多死で始まり少産少死へと移り、わが国のように少産「多死」を迎える。人口が減っていくのはむしろ当たり前なのだ。参考値だが約百年後の日本は、昭和初期の六千万人余を下回ると推計されている。また年齢区分の一つ「六十五歳以上」は一九六〇年からのままだが、当時の男性の平均寿命は六十五歳、〇五年は約七十八歳まで延びている。
◆なぜ机上プランなの
明美さんが町を離れたのはふるさとを見限ったからではない。役場の嘱託職員になり、あるとき町の長期計画策定の住民会議の一員に選ばれた。でも役場が招いた東京のシンクタンクのプランが最終案に。「なぜ町の将来を町外の人に委ねるの?」。彼女の疑問は当然だ。町づくりについて大学で学び直し、それを持ち帰って生かしたい−との決心はうなずける。
県や市町村など地方自治体は、国の地域開発や国土計画を丸のみしてきたきらいがある。机上でつくった上からの施策や公共事業は一時的には地域財政を潤しても、ほとんどが結果的に地域の再生をはばんできたのではなかったか。農林水産業という国の根幹の一次産業も振興どころか、むしろ衰弱させてきた。
過疎と高齢化の中、被災地の復興、再生は生易しくはない。けれど、ひるむ必要もない。例えば岩手県なら一県で食料やエネルギーを自力でまかなうだけの底力があるという。高齢化は医療や介護の深刻な問題などが確かにある。だが半面、元気な高齢者が増えたともいえる。お年寄りの生き抜いていく知恵を借り、最先端の技術も生かせばいい。
その土地に根差し、世界への想像力と共感を保ち続ける共同体の姿を想像してみよう。中央や成長神話に頼らない地域の力を今こそ構想し、実現したい。
政府の復興構想会議も「市町村主体の再生」を提言した。地域主権の視点から言えば、広域行政をにらんだ岩手県など北東北三県の動きも以前あった。
◆広がれ「新しい風景」
構想会議委員で、明美さんとも親しい赤坂憲雄・福島県立博物館館長は長年東北を回り、東北学を提唱してきた。福島出身の父を持つ。ふるさとを原発に踏みにじられたからこそ「福島からさよなら原発」を唱え、自然エネルギーへの復興特区を求める。「地産地消と循環の『新しい風景』を福島から広げていきたい」。共同体が主役として自立していくには住民一人一人の不屈の覚悟がいる。
明美さんのふるさとへの思いも同じだ。被災三県、いや東北全体が、身の丈に合った歩みをして再生の先駆けになれたら、と。
私たちも、そんな東北の人びとの再生への希望を共有したい。
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