「客を扱うに貴人に接すると思うてせよ」。茶聖千利休の教えです。人を尊ぶのが茶の心。ならば、あるべき社会の縮図です。特に今のこの日本では。
床の間には、無地の麻布を掛けました。掛け軸の代わりに涼感を表します。
名古屋市の和文化コーディネーター松本沙帆さんが時折開く、初級茶懐石講座の演出です。
会場は、板の間にユニット畳が二十枚、迎える客は十人でした。限られた予算と手持ちの道具を目いっぱい活用し、初心者にも、より楽しんでもらえるように、松本さんは知恵を絞ります。
◆できる限りを尽くす
“侘(わ)び”。千利休が打ち立てた茶道究極の美意識です。侘びとは本来、誰かのために自分にできる精いっぱいを尽くすこと。その上で自分を省みて、至らなさを詫(わ)びること。侘びは詫び。そんな解釈も、あるそうです。
その夜の茶席で松本さんは、五人ずつ横一列に二組が向かい合うよう席をしつらえ、真ん中に毛氈(もうせん)ではなく、天の川に見立てた白い布を敷きました。
七夕には定番の笹(ささ)の葉や短冊はあえて飾らず、“織り姫組”と“ひこ星組”が、天の川を隔ててお互いを見つめ合う−。松本さんは、そんな舞台を整えました。
お点前には茶わんではなく、透明なガラスの小鉢が使われました。手触りで涼を味わう、これも見立てです。
濃茶の深い緑が器に映えて美しく、ガラスの中に閉じこめられた微細な泡が、星座のように輝いて見えました。
茶席には、作法がつきものです。くつろいで楽しむ場所というよりは、マナーやルールでがんじがらめのイメージが、どうしても先に立ってしまいます。
ところが、松本さんは「茶道のさまざまな決めごとは、いわば機能美です」と言いました。
表現やデザインのためというよりは、そうした方がスムーズだから、楽しめるから、そうしないともったいないから、相手に対して失礼だから−。このような目的や実利があるから、作法があるというのです。
畳の縁をまたぐのは、畳が長持ちするように。器を懐紙でぬぐうのは、湯水を節約するために。その懐紙を持ち帰るのは、ごみを出さないように。
「客の心になりて亭主せよ、亭主の心になりて客いたせ」
大名茶人の松江藩主、松平不昧(ふまい)公の言葉です。
茶の湯の作法は結局は、主客が互いを敬う心の表れです。
◆わずか二畳のエコ空間
茶席を主催する亭主の“侘び”。最善を尽くして客をもてなす亭主の心を受け止めて、客は亭主に気を配り、敬意と感謝の気持ちを込めて作法に従います。
縦横も上下もなく、主客の心が無言のうちに敬意の糸で結ばれた時、わずか二畳の狭い茶室が、快適な「エコ空間」に変わります。
茶席は、非日常の世界と言われています。主客は露地と呼ばれる庭を通り抜け、現実をつかの間逃れて浮世の外に遊びます。
ところが今や、その異世界の内にこそ、情報化社会の中に消え入りそうな普通の暮らしの貴重な断片が、残されているような気がしてなりません。
一般に茶事は、炭点前から始まって、懐石、濃茶、薄茶へと進みます。炭点前とは、お湯を沸かして香をたき、茶室の温度を整える重要な作法です。
茶事には火が欠かせません。冬場には、ぬくもりそのものが何よりのごちそうです。夏場には、持ち運びができる風炉を使って、客からなるべく遠ざけます。茶室環境を快適に保つ“エネルギー問題”に、亭主は<客の心になりて>細心の注意を払い続けます。
茶事ではそんな“亭主振り”が試されます。快適な環境、心地よい時間を創造しようと努力する、その姿勢が試されます。
ところでわが政府、わが電力会社の亭主振りは、いかがでしょうか。国民より国策、いのちより経済、<客の心になりて>どころか、やらせ、政争、責任逃れ…。
◆“侘び”が見えない
猛暑は情け容赦なく、東日本大震災の被災地を襲っています。発生から四カ月半を過ぎてなお、不自由で危険な暮らしに耐える被災者に敬意を払い、あたうる限り良い環境を創造しようと努力する、強い心や姿勢が見られません。“侘び”が、感じられません。
利休茶の秘伝書「山上宗二記」には、茶の湯で一番大事なことは「工夫」と書かれているそうです。それは、基本の上に創意を重ねること。
「工夫」としたためた掛け軸を国会議事堂の軒先にでも、飾ってみてはどうでしょう。
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