来る日も来る日も、行方不明の娘を現場のがれきの中に捜し続ける。その痛ましい行為と、「ここに来ると元気になる」という言葉の懸隔に、胸がつぶれる▼少し前の記事で読んだ、ある母の話だ。宮城県石巻市の大川小では、大津波で児童百八人のうち六十八人が犠牲になった。なおも行方が分からぬ六人のうちの一人が、その娘さん。母が元気になれるのは「ここにいれば、少しでもそばにいられる気がするから」だ▼大震災から今日で三カ月。ラ・フォンテーヌ『寓話(ぐうわ)』には<時の翼で悲しみは飛び去る>とあるけれど、そうだろうか。確かに、あの母は最近やっと娘に夢で会えたという。そのささやかな“再会”さえ、時の経過がかなえたのかもしれぬ。それでも、悲しみが<飛び去る>ことはあるまい▼別の記事では岩手県大槌町で避難所生活を続ける男性が言っていた。「皆今疲れがピークじゃねえかな、もう三カ月だもんね」。福島の原発事故対応に当たる人にも、被災者救援に携わる人にも、それはいえるに違いない▼時間は忘却をも促す。時を経て不安が薄れるのは救いではあっても、被災地への思いまで色あせぬようにしたい。思い出すのは、広島原爆の写真に寄せた石垣りんさんの詩の一節。<午前八時一五分は/毎朝やってくる>▼どれだけ時がたとうと、<午後二時四六分>も、毎日やってくる。