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Astandなら過去の朝日新聞天声人語が最大3か月分ご覧になれます。(詳しくはこちら)
砂を吐かせて鍋に放り、日本酒を浴びせる。口が開く音で火を止め、青みを散らせば至福の時だ。おいしいアサリの酒蒸しである。だが今は、手荒な扱いをわびたい。こんなに繊細な生き物とは知らなかった▼福島県で捕れたアサリの殻に、津波によるストレスの痕跡が確認されたという。日々成長する殻の模様は、遺伝と生息環境を刻んだ履歴書に似る。乱暴に転がされ、見知らぬ深みに運ばれた恐怖を示す異変が、9割もの「貝柄」に認められたそうだ。逃げられぬ身の哀れよ▼アサリ以上の健気(けなげ)は、岩手県の名勝、高田松原で一本だけ残ったアカマツだろう。樹齢は約260年。復興の希望を託されながら、海水で根が腐り、葉が茶色に枯れ始めた。接ぎ木でクローン苗を育てる試みが続く▼白砂青松を共に彩った7万本の仲間は、倒れて散乱した。それを薪(まき)にして売り、地元の復興資金に充てる活動もある。美観に貢献し、防潮林として力尽きた木々は、燃えてその生を終える▼歌人の胸にも、故郷岩手の松原があったのかもしれない。〈いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ〉。啄木の名歌は、止めようのない時を語って悲しい。戻らぬ時間は、砂時計の下半分に降り積もる。過去という名で▼津波は、居合わせた人々の「今」を、砂もろとも押し流した。生き永らえても、心が負った傷は時の流れだけでは癒やし難い。何より子どもたちの、小さく、まだ柔らかい殻に刻まれた深手を忘れまい。