核の威力と恐怖の象徴だった怪獣王が、銀幕から姿を消して七年目。私たちは、次世代をやさしく照らすあかりを自ら選び、育てなければなりません。
一度目は、一九五四年公開の「ゴジラ」で初登場の時。海中の酸素を破壊する薬品で骨にされてしまいます。
二回目は、メルトダウン(炉心溶融)が原因でした。九五年の「ゴジラVSデストロイア」。開巻早々、香港に上陸した怪獣王は、全身を赤く明滅させて破壊の限りを尽くします。
◆原発は魔法ではない
もともとゴジラは、水爆実験の放射能による突然変異で誕生し、体の中は、巨大な原子炉のようなもの、という設定です。その造形は、核兵器に対する恐怖を形にしたといわれています。
遭遇した事故のショックで、体内の核エネルギーを制御できなくなったゴジラは、高熱を発して溶け始め、暴走の揚げ句、核爆発を起こして消滅してしまいます。
荒れ狂う赤いゴジラは、私たちが心の奥に押し込めてきた、絶対に飼いならすことができない核の恐怖の象徴でした。
茨城県東海村で、日本の原子力発電が始まった一九六〇年代、高度経済成長を支える原子の力は、美しい夢のように語られました。
当時の子どもたちを熱狂させたアニメヒーロー、鉄腕アトムも、エイトマンも、動力は小型原子炉でした。科学の子、鉄腕アトムはその名の通り、原子の力、原子の夢の申し子でした。アトムとゴジラ、光と影。原子の夢と核の恐怖はいつも表裏一体でした。
ところが原発は、魔法の発電所ではありません。核分裂の高熱で蒸気をつくり、その勢いでタービンを回して電気を起こす基本原理は、火力、あるいは水力や風力などとも何ら変わりません。
福島第一原発の惨状という現実の恐怖に直面し、脱原発の機運が高まる今、怪物でも夢でもない、電気を起こす熱源としての原子の力を、私たちは見極めなければなりません。
いうまでもなく、暮らしに電気は不可欠です。福島は第二も含めて再起不能、中部では、静岡県の浜岡原発が全面停止に追い込まれ、この夏を乗り切れるのかと、多くの人が不安を感じています。そんなに大切なものなのに、私たちは普段、電気を目にすることはありません。触ることも、においをかぐこともできません。
◆電源は遠くにあって
名古屋市科学館の「放電ラボ」では、百二十万ボルトの電圧が、葉脈のような紫の色の光になって、空気を切り裂く様子を見られます。起電機に触ると、プチッという音がして、小さな痛みを皮膚に感じます。ただそれが、身の回りのテレビやパソコン、最近では自動車さえも普通に動かす電気とは、なかなか結び付きません。
電力業界には「架空送電」という用語があるそうです。
主に海辺で発電された電気は、鉄塔と電線、そして碍子(がいし)で結ばれ、長い“空の旅”を経て、遠く離れた都会へ送られます。空に架かる電線を伝って、はるばる送られてくるから架空です。
東京都心から福島第一原発は、約二百二十キロ離れています。この距離が、電気をさらに見えなくしています。原発や電気の存在感を希薄にします。架空という言葉遣いは皮肉です。送電ロスや排熱のむだもばかになりません。
なくてはならない、とされるものほど、「公共」と名のつくものほど、消費者や利用者との関係が希薄になるのも皮肉です。
私たちのいのちを紡ぐ食べ物は、どこからやって来るのでしょうか、私たちが毎日出すごみは、どこへ消えて行くのでしょうか。鉄道や道路や公園は、放送は、里山は、いったい誰のものですか。
「公」とは「官」が担うものですか。皆さんは、ただの受益者ですか。悪いのは私たちだけですか−。無残に壊れた原発が、断末魔のあえぎの中から、問いかけて来るような気がします。
◆自らのあかりをともす
「残念ながら、私たち都会に住むものの目は、たくさんの醜悪な光に汚染されている。毎晩、光の洪水に晒(さら)されていて、きわめて鈍感になっているのだ」。照明デザイナーの石井幹子さんが「新・陰翳(いんえい)礼賛(らいさん)」の中で書いています。だから「やわらかな『あかり』を、いまに取り戻したい」と。
節電の夏が間もなく訪れます。私たちは「洪水」の中からいったん抜け出して、自分自身の“あかり”を取り戻す必要がありそうです。自分のあかりを選択できる仕組みがあれば、今タービンを回す電源も、次世代を照らす手段も、おのずと決まってくるはずです。
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