ずいぶん前になるが、テレビで、あのアウシュビッツの虐殺を生き延びたユダヤ人の一人が語っていた。「収容所の生活で、唯一、覚えたポーランド語は『なぜ』だった」▼それは、巨大な不条理に覆い被(かぶ)さられた時、人間の中から絞り出される根源的な問いなのか。イタリア人を父に、日本人を母に持つ千葉市の少女が少し前、大震災について、イタリアの国営放送の番組で、ローマ法王にたずねた言葉もそれだった▼「なぜ、こんなに悲しいことになるのか、神様とお話ができる法王様、教えてください」。まったくだ。教えてほしい。なぜ、あんな大地震や大津波が起き、あんなにたくさんの命が失われなければならなかったのか▼ベネディクト十六世は言った。「私も同じように『なぜ』と自問しています」。そう。神は答えを教えてくれない。私たちはこの一番痛切な「なぜ」を、問いのまま抱えていくしかない▼でも、原発事故への「なぜ」は、違う。ウランを創造したのは神だとしても、地中の眠りを呼びさまし、加工し、恐ろしい力を引きだしたのは人間。制御できると思い上がって、その暴走に、振り回されているのも人間だ▼政府は近く、福島第一原発事故原因究明のための委員会を発足させるという。答えは人間の中にある。だから、どんな小さな「なぜ」も問いのまま抱えていくわけにはいかない。