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2011年5月10日(火)付

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浜岡原発―津波だけではない

東海地震の想定震源域の真上にある浜岡原発のすべての炉が当面は止まる。菅直人首相による異例の求めを中部電力が受け入れた。東日本大震災によって東京電力福島第一原発の事故が起[記事全文]

世界遺産平泉―先進の東北よ、再び

中尊寺金色堂や毛越(もうつう)寺庭園で知られる岩手県の平泉が、自然遺産の東京都・小笠原諸島とともに、世界遺産に登録される見通しとなった。3年前に一度、登録延期となっての[記事全文]

浜岡原発―津波だけではない

 東海地震の想定震源域の真上にある浜岡原発のすべての炉が当面は止まる。菅直人首相による異例の求めを中部電力が受け入れた。

 東日本大震災によって東京電力福島第一原発の事故が起き、原子力の安全神話は崩れた。

 国内で最も危険といわれてきた原発を止め、安全対策を強めるのは当然の決断と言えよう。

 ひとつ気になるのは、首相の要請が防潮堤づくりなどの中長期対策が施されるまで、となっていることだ。地震の揺れそのものに対しては大丈夫なのか、という心配が残る。

 中長期対策は、福島第一の事故を受けて、原子力安全・保安院が、津波に対する備えや、それによって起こる電源喪失などへの対策を確実にするために求めた。

 中部電の計画では、防潮堤のほか防水扉、非常用の炉心冷却系や電源を充実させる、と説明している。そこには、揺れそのものに対する安全度の確認や補強策は含まれていない。

 浜岡原発がこれまで不安視されてきたのは、なによりもプレート境界型の巨大地震である東海地震の揺れに耐えられるか、ということだった。

 そのこともあって、中部電は早めに手を打ち、2005年に補強を表明した。ほかの電力会社も追随した。

 それでも、06年に改定された新耐震指針による浜岡原発に対する保安院の審議は、まだ終わっていない。

 長引く背景には、07年の新潟県中越沖地震で東京電力柏崎刈羽原発が想定を大きく超える揺れに見舞われるなど、新しい事態に直面したことがある。

 東日本大震災からも、教訓を得る必要がある。

 福島第一原発の事故では、津波の高さばかりに目が向いている。だが、原子炉の配管系が津波襲来より前の強い揺れで大きく損傷した可能性がある。そして、揺れの最大加速度だけではなく、その継続時間の長さにも特徴があった。

 安全対策で忘れてならないのは、一つのことに目を奪われてはならぬということだ。

 福島第一原発は、それまで関心の低かった津波によって予想外の大打撃を受けた。浜岡で、その逆の愚をおかしてはならない。地震の揺れを忘れまい。

 日本列島周辺の地震の仕組みや危険度については年々、新しいことがわかってきている。新知識をとり込みながら、原発を動かすか止めるかを決める。

 そういう柔軟な原発政策が、いま求められている。

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世界遺産平泉―先進の東北よ、再び

 中尊寺金色堂や毛越(もうつう)寺庭園で知られる岩手県の平泉が、自然遺産の東京都・小笠原諸島とともに、世界遺産に登録される見通しとなった。

 3年前に一度、登録延期となっての再挑戦だ。浄土思想を表した建築や庭園が「人類が共有すべき顕著な普遍的価値」と評価されたことになる。

 内陸部の平泉は大きな震災被害は免れたものの、大型連休中もにぎわいは戻らなかった。登録が正式に決まり、世界中の人が訪れるようになれば、東北復興の大きな励みになる。喜びや期待を共有したいと思う。

 地元に求められるのは、集客のための整備だけではない。どう平泉の価値を守り、伝えるか。知恵と工夫が必要だ。

 それはそれとして、この朗報を、震災で大きく傷ついた東北地方の、過去と未来を見つめる機会にしてはどうだろう。

 「東北学」提唱者で、政府の復興構想会議の一員でもある赤坂憲雄さんは、蝦夷征伐からの歴史を引きつつ「東北は辺境=みちのくとして、負の歴史を背負わされてきた。大震災でそのことが再発見された」という趣旨のことを、論じている。

 戦後の経済成長で、東北から多くの若者が離れた。少しでも東京に近づくことが目指され、新幹線や高速道路が延び、仙台などの都市化は進んだが、幹線から離れた海岸の街は取り残された。原発立地に頼らざるを得ない地域もあった。

 まさにその「辺境」を襲ったのが津波と原発災害だった。

 東京発で復興のかけ声は響くけれど、被災地から人の流出は加速し、なかなか未来を思い描けない。それが現実だろう。

 だがここで、さらに時空を駆けてみる。12世紀の東北地方を支配した奥州藤原氏は、戦乱犠牲者の鎮魂のため、中尊寺を建立した。京の争乱をよそに、高い文化と繁栄を誇ったのが平泉だ。地方の時代のはしりだったとはいえないか。

 平泉だけではない。巨大集落跡を示す青森・三内丸山遺跡は縄文の歴史観を大きく変えた。仙台藩主・伊達政宗は、江戸が鎖国に向かう中、支倉常長らをはるかローマに送った。

 自立し、調和し、目を外に開いた地。「中央」の時計とは異なる時間を、東北は刻んできたことが浮かぶ。周回遅れのようでいて、実は先頭ランナー。震災からまき返し、東北を再び興してゆくヒントが、そこにあるのではないか。

 東京目線の「その先の日本」を超える、豊かな地の再生。そんな夢を平泉に重ねてみる。

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