HTTP/1.1 200 OK Connection: close Date: Sat, 09 Apr 2011 21:08:27 GMT Server: Apache/2 Accept-Ranges: bytes Content-Type: text/html Age: 0 東京新聞:大震災からの復興  究極の防災を考えよう:社説・コラム(TOKYO Web)
東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 社説・コラム > 社説一覧 > 記事

ここから本文

【社説】

大震災からの復興  究極の防災を考えよう

2011年4月9日

 明治三陸地震津波を上回る犠牲者が見込まれる東日本大震災から、まもなく一カ月。復興の端緒も見え始めたが、安全な地域の再建には何が一体必要か。

 三陸地方ではすでに平安時代の初めから、巨大地震・津波に襲われた記録が残る。

 朝廷編さんの六国史の最後となる「日本三代実録」貞観十一年五月二十六日条は、「陸奥の国(東北地方の太平洋側)の地大いに振動す」、建物は倒れ、地は裂け、津波が多賀城下まで達し、船や山に逃げても間に合わず、溺死者約千人と記している。

◆三陸は「津波常襲海岸」

 現代の暦で八六九年七月に当たる。この時の津波が運んだ堆積物を宮城、福島県などの内陸部で確認、その再来を警告していた一部の研究者もいた。

 一六一一(慶長十六)年十二月にも、三陸・北海道東岸は大きな津波に見舞われ、数千人の犠牲者を出した。近代以後は明治三陸地震津波(一八九六年六月)、昭和三陸沖地震(一九三三年三月)と続き、甚大な被害を招いた。

 現在は岩手県大船渡市に含まれる旧綾里村出身の民間津波研究者山下文男氏は、昭和と今回の二回も、大津波を体験した。実地踏査に基づく著書「哀史三陸大津波」の中で、三陸沿岸を「津波常襲海岸」と名付けた。

 その通りだ。安全な地域の復興には発想を転換、抜本的な防災対策に基づく必要があるだろう。

 地震津波の体験地域では「揺れたらすぐ高所へ避難」が常識である。だが波高や到達時間次第で、人命を救えるかわからない。

 「津波から人命を救う」をうたった同県釜石市の巨大な湾口防波堤も、今回の津波はやすやすと乗り越えた。防波堤、消波ブロックや防潮林など海岸施設は、津波のエネルギーや波高を減衰させる効果はある。だが津波が巨大で、湾口が広く湾奥が狭いリアス式海岸では、海岸施設の限界が示されたといわざるを得ない。

 津波常襲地で被災の悪循環を断つには、被災地での復旧でなく、住民の高台への移住を中心に新しい地域づくりを選ぶほかない。

 三陸では明治、昭和の地震津波後も移住計画があり、昭和の時は集団、個別に岩手県で三千世帯、宮城県を合わせると約八千世帯が高地へ移った。この時は東大教授や地震学会会長を歴任した故今村明恒氏の国、各県への熱心な説得が大きく働いた。明治の時は昭和の時より小規模だが、青森も含む三県で高地移転の例がある。

◆高地移転が明暗分かつ

 しかし時の経過とともに低地に集落が復活、高地にとどまる住民は多くはない。それが人の生死と集落存廃の明暗を分ける。

 高地にとどまった大船渡市吉浜地区は、旧吉浜村の主導で明治の被災後山腹に道路を造り、その道路沿いに分散移転した。昭和津波では軽微な被災、今回も家屋・人命の被害はわずかだった。

 逆に岩手県宮古市田老地区は明治の集落ぐるみ移転が挫折、昭和に再度壊滅的な被害を受けた。その後も低地居住が多く、高さ十メートルの防波堤整備に努め、チリ地震津波(一九六〇年五月)は耐えたが、今回は被災を免れなかった。

 低地に戻る理由は、漁業に不便で、道路や水道が未整備だったほか、世代交代で津波の恐ろしさが忘れられたことが大きい。

 二〇〇四年十二月のスマトラ沖地震津波の大災害を経験したインドネシアのバンダアチェ、タイのナムケ厶でも、高地に復興住宅が建てられた。しかし毎年現地調査をしている海津正倫・奈良大学教授(自然地理学)によると、過去の三陸と同様いったん入居しても次第に空き家が増えている。

 だが大規模な移住といっても明治・昭和と現代、日本と東南アジアでは時代も条件も違う。今度こそ、後の世代まで考慮した思い切った手段を取るべきだろう。

 海岸寄りの低地は漁業施設、公園緑地などに、山寄りの高地には高齢者を優先した住民の居住地や生活に欠かせない商業施設などと地域分けする。道路網や水道など社会資本やライフラインの整備も同時に進めるのは、当然だ。

 まず必要なのは国、自治体が計画を立て、土地の確保・造成、用途指定など災害と絶縁できる復興の青写真をつくることである。

◆悔い残さない計画を

 被災し身ひとつになった住民が移転して、生活を再建できる資金面の支援も必要である。

 阪神大震災の際は、被災後一カ月の短期間のうちに、“上”から都市計画決定を急ぎ、住民とのあつれきが長く尾を引いてしまった。今回の大震災は、被災人口も被災面積も桁違いに大きい。あせらず住民が納得するまできめ細かい話し合いをせねばならない。百年、いや千年の大計なのである。

 

この記事を印刷する

PR情報





おすすめサイト

ads by adingo