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2011年4月7日(木)付

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被災地の学校―子どもに笑顔を戻そう

大津波に襲われた被災地では380人を超える児童生徒が犠牲になり、いまなお500人の安否がわかっていない。春の新学期が始まったが、岩手、宮城、福島の3県では公立学校の7割[記事全文]

無罪破棄―新時代の高裁の役割は

刑事裁判に健全な市民感覚を反映させることを目的に、裁判員制度は導入された。では、その市民6人と職業裁判官3人が話し合って出した地裁の判断を、裁判官3人の高裁が覆すことは[記事全文]

被災地の学校―子どもに笑顔を戻そう

 大津波に襲われた被災地では380人を超える児童生徒が犠牲になり、いまなお500人の安否がわかっていない。

 春の新学期が始まったが、岩手、宮城、福島の3県では公立学校の7割が被災し、280校が避難所になっている。

 親兄弟を亡くしたり、疎開を余儀なくされたり、多くの子どもたちが厳しい状況にいる。

 大人のなかで集団生活が続く避難所暮らしでは、良い子でいなければと、つらい気持ちを押し込めてしまいがちだ。

 そんな時、学校に行って友達と話せば、重荷をおろすことができるだろう。思い切り泣いても構わない。

 被災地の県教委は今月下旬からの学校再開をめざしている。時期尚早との声もあるが、子どもたちのために、なるべく早く始業式にこぎつけたい。

 教材や本は流され、教室も壊れたまま。そんな学校の先生や保護者らには、授業再開にとまどいがあるかもしれない。

 しかしここは、阪神大震災を経験した兵庫県教委の震災・学校支援チームの助言を聴こう。

 始業式に児童生徒全員がそろわなくてもいい。毎日の授業が難しければ、2日に1回でも、校庭での青空教室でも、できることから手をつければいい。

 何ごとも状況に合わせて柔軟に進める。現場の発想と知恵を大切にすればよい。

 避難所になっている学校への手助けも重要だ。

 避難所は災害救助法に基づき自治体が設置し、運営は自治体職員の役割だ。ところが津波で多くの自治体職員も被災し、人手が足りなくなっている。

 先生たちが学校と同時に避難所の運営を担っている例もあるが、教育に専念できる環境づくりに努めたい。教える人が少なければ、経験豊富な教職員OBらの協力に期待しよう。

 避難生活の苦情などが学校に向かい、地域の人々との関係がこじれる事態は避けたい。運営にあたる被災自治体を支えるため、内陸部にある近隣自治体のさらなる応援が必要だ。

 救援物資はだいぶ届くようになり、被災者の自治組織ができた避難所も増えている。自治体職員と力をあわせ、ボランティアの手も借りて生活の場を支えてもらいたい。

 授業が始まると、子どもの心は学校に向いてくる。傷ついた心を癒やすきっかけを見つけて欲しいと願う。

 子どもたちに笑顔が戻れば、被災した地域の人々も励まされる。それが復興の第一歩になるに違いない。

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無罪破棄―新時代の高裁の役割は

 刑事裁判に健全な市民感覚を反映させることを目的に、裁判員制度は導入された。

 では、その市民6人と職業裁判官3人が話し合って出した地裁の判断を、裁判官3人の高裁が覆すことはできるのか。できるとしたらどんな場合か。

 制度発足前から関係者の頭を悩ませていた課題が、ここにきて改めて浮かび上がった。

 覚醒剤を密輸しようとしたとして起訴され、裁判員裁判で無罪になった被告に対し、東京高裁はこの判決を破棄したうえで懲役10年を言い渡した。

 海外で知人から渡された荷物の中に覚醒剤が入っていることを、被告が分かっていたとは言えない。一審はそう判断した。これに対し高裁はほぼ同じ証拠に基づきながら、被告の言い分は二転三転して信用できないなどと指摘し、持ち込みの認識があったと結論づけた。

 真実はどちらか、私たちには分からない。ただ、高裁が「裁判員らの判断は誤りだ」と言うには、よほど説得力のある理由と説明がない限り、国民の理解を得ることはできまい。

 市民が司法に参加する時代の高裁の役割を研究した学者と裁判官のチームは「客観的な証拠によって認められる事実を見落とすなど、経験則に照らしてあり得ない不合理な結論の場合を除いて、一審の判断を尊重するべきだ」との考えを示した。

 当を得たものだと思う。だが経験則といっても、明確な物差しがあるわけではない。結局は判断する人それぞれが歩んできた人生や日ごろの生活、体験に負うところが大きい。

 今回の高裁の指摘を踏まえて一審判決を読み直しても、「あり得ない不合理な結論」と断じられるのか、なお疑問が残る。高裁がどうしても異論ありと言うのなら、せめて一審に差し戻し、もう一度、市民に判断を委ねるべきではなかったか。

 しかも無罪から有罪への変更である。検察側の立証が十分かどうかを審査するのが刑事裁判だ。裁判員らが「十分でない」と判断した重みを踏まえ、高裁にはより抑制的な姿勢が求められるケースといえよう。

 私たちは、真実は必ず明らかになるし、罪を犯した人は報いを受けねばならないと考えがちだ。もちろん真相解明は刑事裁判の大切な目的だが、「疑わしきは被告人の利益に」という、冤罪(えんざい)や失敗を重ねて得た英知を忘れてはならない。

 裁判員制度が始まって2年。この後も予想される曲折を乗り越え、市民参加の意義について互いの認識を深めていきたい。

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