この季節を春と呼ぶのは草木の芽の「張る」ことに由来するともいわれる。古期英語の「流出口」から、やはり芽が「出る」の連想を経て、スプリングに春の意味が備わったらしい英語とも通じる▼いずれにしても、命の芽吹きの季節だ。けれど、この春に跳びはねるような気分はない。あの大震災はまるで正反対のことをしてくれた。犠牲者は既に一万一千人を超え、不明者も二万人近い▼戦後、この国でこれほどの数の命が一度に断ち切られたことはない。わけても、やるせないのは、さながら若芽のような幼い命が多く、死者に含まれていることだ▼大津波に多くの児童がのみ込まれた宮城県石巻市の小学校近くに、瓦礫(がれき)の中からみつかった泥まみれのランドセルが何十個と並べられた写真には、胸がつぶれた。この震災の報道で目にした最も哀切な写真の一つだ▼だからこそ、過酷な避難生活の中でも新たな命が次々に生まれ、育っているというニュースはうれしい。ふと頭に浮かぶ一首。<煤(すす)、雪にまじりて降れりわれら生きわれらに似たる子をのこすのみ>塚本邦雄▼どんな災禍に遭っても人は生き、命を紡ぎ続ける。その「しぶとさ」への確信が、私たちの再生への力の源泉になるだろう。今、テレビの中の甲子園を見やれば、十六年前、阪神大震災の年に生まれた命が、何とたくましく躍動していることか。