HTTP/1.1 200 OK Connection: close Date: Sun, 27 Feb 2011 20:09:06 GMT Server: Apache/2 Accept-Ranges: bytes Content-Type: text/html Age: 0 東京新聞:週のはじめに考える 彼を死なせていいのか:社説・コラム(TOKYO Web)
東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 社説・コラム > 社説一覧 > 記事

ここから本文

【社説】

週のはじめに考える 彼を死なせていいのか

2011年2月27日

 再審の扉は、平成の時代になって、なお重いのかもしれません。裁判の権威を損なわぬためともいわれます。裁判員時代だから考えてみたい問題です。

 見出しの「彼を死なせていいのか」の彼とは、たとえば名古屋拘置所に在監中の奥西勝死刑囚(85)です。

 事件を振り返ってみましょう。

五十年前の昭和三十六年三月二十八日の夜、三重県名張市の公民館で開かれた地区の会合で、男十二人は日本酒、女二十人はぶどう酒で乾杯。直後に女性らが苦しみだし、五人が死亡しました。

◆無罪から一転死刑に

 乾杯した男の中の一人が奥西死刑囚で、ぶどう酒を公民館へ運んでいました。女性関係清算のために、ぶどう酒に農薬を入れて殺害したとする殺人容疑で逮捕され起訴。深夜に及ぶ取り調べの中で「自白」していました。

 裁判は驚くほど転々とします。

 一審判決は、鑑定(ぶどう酒びんの王冠に付いた歯形)や証言が薄弱だから自白は信用できないとして無罪。二審は逆に鑑定の一部を採用し、自白を認めて有罪死刑の言い渡し。最高裁で確定。

 無実を訴える彼は再審を請求。六年前、実に七度目の請求に対し名古屋高裁が“凶器”だったはずの農薬が実際に使われた毒物か疑わしいとして再審の開始を決定したのですが、これも検察の異議が認められ逆転。昨年、最高裁が半世紀も前の農薬とぶどう酒の分析実験を再現せよと命じて高裁に差し戻して、今に至っています。

 この経過から分かることが二つあります。

 一つは「自白」の危うさです。裁判所は概して信用する傾向にありますが、そこにしばしば誤りが潜んでいたことは、過去の多くの冤罪(えんざい)事件の教えるところです。

◆裁判の権威とは何か

 二つ目は再審の扉の重さです。確定判決を疑うには、やはり新証拠が必要となります。しかし「疑わしきは被告人の利益に」の鉄則が再審開始にも適用されるようになり、死刑囚の再審無罪が相次いだのは昭和の終わりごろでした。最高裁はあわてて欧米の陪審・参審裁判研究に乗り出しました。

 ところが、平成に入り再審の扉は再び重くなったようなのです。裁判所の内部はなかなかうかがいしれませんが、元裁判官で最高裁調査官も務めた渡部保夫さんは著書でこう述べています。「裁判をやり直して無罪判決を言い渡すことは、裁判の権威を損なう面があります。ですから、一種の反動として、平成年代になりますと再審の扉が再び堅く閉じられ…」(「刑事裁判を見る眼」岩波現代文庫)。一個人の感想のようですが、当時の司法の姿に根本的な疑義を感じていたのでしょう。

 渡部さんはある統計を引いています。最高裁が下級審の有罪判決を破棄した件数で、昭和五十二〜五十六年度は年平均三件、六十二〜平成三年度の同二・四件に対し、その後〇・六件へと減っていました。その減少の陰でため息を発している多くの冤罪者がいるのではないか、と推察しています。

 裁判の権威とは一体何なのでしょう。法の安定や裁判の信頼性があげられます。治安への影響もあるでしょう。それらはむろん大切です。しかし一人の冤罪者も生まないこと、それこそが真に裁判に求められる信頼、また権威なのではないでしょうか。

 獄死した死刑囚に帝銀事件(昭和二十三年発生、十二人死亡)の平沢貞通画伯がいます。横山大観の弟子で「大〓(たいしょう)」の雅号をもらった日本画家です。

 逮捕から三十九年後、やっと外に運び出された画伯の顔は小さくて、黄疸(おうだん)によりオレンジ色になっていました。青酸カリを大勢に一度に飲ませる手口から、真犯人には旧日本軍細菌部隊の関連が疑われた事件でした。歴代法務大臣はだれ一人として死刑執行命令書に署名しませんでした。

 奥西死刑囚に話を戻せば、彼は耳が遠く、理解が遅くなり、食事はおかずは無理しても食べるが、おかゆは残すのだそうです。再審を求める裁判はもはや時間との闘いです。

◆誤判を減らすために

 人が人を裁くことは難しく、誤判は永遠になくならないのかもしれません。しかし減らす努力を続けねばなりませんし、今や裁判員時代です。市民裁判員は悩みつつ死刑判決を出し、考えつつ無罪判決を出しています。誤判を減らす歩みの中です。

 裁判に必要なのは、重々しい権威などではなく、むしろ権威に対する市民的懐疑であり、だれもが理解できる公正なのです。獄中でもし冤罪に苦しむ人がいるなら、彼らは誤った権威による犠牲とも考えられるのです。閉じこめてはおけません。

※〓は、日へんに章

 

この記事を印刷する

PR情報





おすすめサイト

ads by adingo