社会的現実は矛盾する諸要素の組み合わせです。表面的な既成事実に固執せず、隠れた部分を探る姿勢、新局面を切り開く努力が前進につながります。
「沖縄の皆さんにとって辺野古はベストの選択ではないが、実現可能性を考えたときベターな選択ではないか」−米軍普天間飛行場の辺野古移設に関する菅直人首相の発言は、「理想的」「現実的」と読み替えが可能です。ここに沖縄県民は「国家の暴力」のにおいを感じ取ったことでしょう。
公権力者は、現実的と称してしばしば自分たちが選択した既成事実を押しつけるからです。
◆「既成事実」と同義語に
政治学者の故丸山真男氏は「現実とは本来、一面において与えられたものであると同時に、他面で日々作られるものなのに、日本で“現実”という時にはもっぱら前者のみが前面に出る」と論じました(「現実」主義の陥穽(かんせい)=「現代政治の思想と行動」所収)。この国では通常、現実と既成事実は同義語のように扱われるのです。
菅首相は、いや民主党政権は、新たな現実を切り開く努力もろくにしないで、辺野古移設を容認させようとしています。
「最低でも県外」と公言しながら県民の期待を裏切った鳩山由紀夫前首相は、その責任を感じないかのように党内抗争に加わり、後継の菅政権を批判しています。
長年、政権の座にあったのに問題を解決できなかった自民党も同罪です。
実は、社会的現実は矛盾するさまざまな要素で構成されていますが、「現実を直視せよ」などという時はある側面だけが強調されます。特に日本では、その時々の支配者、強者が選択する側面が「現実的」とされ、対抗する側の選択には「観念的、非現実的」というレッテルを貼られがちです。
◆「琉球処分」と同じ視線
大城立裕氏の長編歴史小説「琉球処分」は、明治政府が琉球王国を解体し日本国の支配下に組み込んでゆく琉球処分の経過を描いています。当時、ヤマトの政府は説得に応じない琉球王府の役人や民衆を無知蒙昧(むちもうまい)の輩(やから)と軽蔑し、最後には軍隊まで出しました。
菅首相は沖縄の歴史を学ぶためこの小説を読んだそうですが、いったい何を学んだのでしょう。
小説では、いろいろ理由を並べて抵抗し続ける琉球高官を、日本政府代表の琉球処分官となる松田道之が「琉球藩王が二枚舌を使って政府を愚弄(ぐろう)したことになるぞ」と恫喝(どうかつ)します。
昨夏、刊行された守屋武昌元防衛事務次官の著作「『普天間』交渉秘録」にも、一進一退する交渉に守屋元次官がいらだち、辺野古移設にすんなり同意しない沖縄県知事や名護市長らを批判した部分があります。第二章の「『引き延ばし』と『二枚舌』」、第五章の「不実なのは誰なのか」です。
松田処分官の視線と守屋氏のそれとの類似性に驚かされます。
二つの本の出版には四十年余の隔たりがありますが、沖縄で生まれ育った大城氏は沖縄に対する今日の政府側の視線を予感していたかのようです。作品の中で最高責任者の伊藤博文内務卿に「すべては既成事実がものをいう」と言わせてもいます。
「現実的」と称して普天間飛行場の辺野古移設にこだわる政府の姿勢は、多くの沖縄県民の目に琉球処分に次ぐ「第二の国家暴力」と映るのではないでしょうか。
一九五〇、六〇年代に伊江島で米軍射爆場反対の闘争をリードした故阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんは「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)」と唱え、闘争記録集の表題を「人間の住んでいる島」としました。
目の前に米軍基地が広がる現実は所与のものではなく、銃剣とブルドーザーで住民を蹴散らして造られたものであることを確認し、人間が安心して住める島の復活という新たな現実を創出することを目指したのです。
日本現代史は、軍や政府の選んだ「現実」が国民にのしかかり、自由な発想と行動を圧殺したことの連続でした。それを教訓に生まれた日本国憲法の非武装、国際協調主義は、軍隊を持たず、巧みな外交で生き抜いた琉球王国の歴史に通じる部分があります。
だからこそ本土復帰運動のスローガンは「平和憲法の下へ」でした。本土の側の人々はこのことを胸に刻んでおきたいものです。
◆解決に欠かせない視点
社会的現実は眼前の事実だけでなく、表には現れない部分なども含む多面体である。権力を握る側が特定の既成事実の受け入れを迫るのは、迫られる側にとって暴力に等しいこともある。沖縄は「人間の住んでいる島」である。
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