内部告発サイト「ウィキリークス」が流した米国の機密情報が世界に衝撃を与えています。新聞をはじめ既成メディアはどう受け止めるべきなのか。
ウィキリークスが入手した米政府公電など機密文書は全部で二十五万件以上とされ、公開された分はほんの一部です。すべて公開されたら、どんな新情報が明るみに出るのか、想像もできません。まさに空前の情報流出です。
米ニューヨーク・タイムズと英ガーディアンは事前にウィキリークスから情報提供を受けて報道を始めました。日本の報道の多くは両紙記事が基になっています。
◆ネットで世界に伝える
政府が公開していなかった機密情報がネットに流れる事態は日本でも起きたばかりでした。国際テロリストに関する警視庁の公安情報ファイル流出事件と尖閣諸島沖での中国漁船衝突を撮影した「尖閣ビデオ」事件です。
情報の中身とスケールは違いますが、一連の事態には見逃せない共通点があります。それは政府機関内部か、それに近い人間が情報をネットに流した点です。
そこには「内部告発」という意味合いもある。尖閣ビデオを流した海上保安官は「一人でも多くの人に見てもらいたかった」という趣旨のコメントを発表しました。そもそもウィキリークスは政府や企業による非倫理的行為の暴露を目的にしています。
ネット上の内部告発が同時多発的に起きたのは、私たちが直面している「新しい現実」を示しています。一人の個人が非合理や理不尽と感じたことを独力で世界に知らせるようになったのです。
機密情報が無秩序に流出する事態を放置すれば、情報源や外交官に危害が及ぶ事態もありうるでしょう。政府の情報管理強化が必要なのは当然です。
◆みんなが目を光らせる
そう認めたうえで、告発を「個人による権力監視活動」とみるなら、たとえ政府職員であっても公益や国益を考えた行動はできる限り尊重されなければなりません。権力監視はけっして既成メディアの特権ではない。民主主義は一人ひとりのものなのですから。
ネットという便利な道具の広がりを考えると、管理強化で告発を完全に止めるのも不可能です。政府はいまや内部の職員とも緊張関係に入らざるを得ません。
政策の企画立案から実施に至るまで国益や公益に照らして適正かどうか、これまで以上に厳しく検証する。そうした本来あるべき姿勢が問われます。まして妥当な理由なきまま、都合の悪い情報を隠したりするのは論外です。
「妥当性」について、みんなが目を光らせるようになった。それが問題の核心なのです。
相次ぐ告発の衝撃波を受けた、もう一方の主役は、実は既成メディアでした。日本の新聞はもちろん、ニューヨーク・タイムズもウィキリークスの情報がなければ、新事実をあきらかにできなかった。尖閣ビデオ報道も最初に流れた「ユーチューブ」の動画サイトがなければ不可能でした。
これまで告発を世界に報じる媒介の役割を果たしていたのは新聞やテレビ、雑誌といった既成メディアでした。いまや告発するのに記者やディレクター、編集者の力を借りる必要はありません。
少なくとも一連の事態に関する限り、既成メディアは一次情報を伝える立場からネットに流れた情報を転電する「二次メディア」になったと言えます。
新聞はこれまで「ジャーナリズムの雄」を標榜(ひょうぼう)し、権力監視に誇りを抱いてきました。しかし、告発の一次情報を伝えきれないとしたら、どうするのか。新聞として自問せざるをえません。
政党や役所、産業ごとに置かれた記者クラブを拠点にした取材活動にも問題があります。勇気を持って告発しようとする情報提供者からみれば、記者クラブの記者は「当局に近い人」と映るかもしれない。それで情報が得られるか。記者自身が告発者同様「自立した個人」でなければなりません。
一次情報がネットに流れるなら、新聞はなにを読者に提供するのか。重要なのは「一次情報の整理と意味づけ」だと思います。
多くの公電をナマで見せられても、直ちに意味合いを理解できる読者は少ないでしょう。尖閣ビデオも同じです。衝突映像に怒りを感じても、日本外交にとっての意味合いや今後の展開を考えるには全体像の整理が不可欠です。
◆新しい地平を目指して
ネットの進化と少数の先駆者たちによって、ジャーナリズムは新次元に突入したと感じます。小沢一郎元民主党代表のように、ネット重視の政治家も現れてきました。新聞も新しい地平に切り込んでいかねば。
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