群馬県桐生市の小学六年生の女子児童が自殺し、学校はいじめがあったと認めた。小さな命を蔑(ないがし)ろにする空気に先生はなぜ立ち向かえなかったのか。教育者として大切なものを見失っていないか。
「やっぱり『友達』っていいな!」。女児が自殺する直前にノートに描き残した漫画の題名だ。
担任の先生が「転校生なので仲良くしてあげてください」と笑顔でクラスメートに紹介すると、転校生の小学五年生がはにかみながら「よろしくお願いします」とあいさつする。
この空想の世界が現実のものになるようにと、実際に愛知県から転入してきた女児はどれほど夢見ていたことだろう。
自殺から二週間余りたって学校は同級生らのいじめがあったとして両親にわびた。自殺の原因は分からないとした。いじめが自殺の一因ではないかと問う記者団に「学校生活で死を感じさせる言葉や様子がなかった」と釈明する校長には教育者の姿はなく、学校管理者として責任回避に終始するように見えたのは残念だ。
女児は「臭い」「近寄るな」と悪口を言われ、両親に泣いて転校を頼んでいた。その苦悩は幾度も担任の先生に伝えられていた。独りぼっちで給食をとる姿は担任が目の当たりにしていたはずだ。自殺の二日前にもその悲しみを涙ながらに学校に訴えていた。
これだけのSOSを出していたのに学校はなぜ真実を確かめ、いじめに立ち向かうことができなかったのか。悔やまれてならない。
先生は忙しい。報告書作りや会議、行事といった事務仕事に追われる毎日とされる。先生同士のコミュニケーションが薄れ、一人で問題を抱え込みがちだとの指摘もある。子ども一人一人を見つめ、愛情を注ぐという本来の教育に取り組めなくなっているとすれば、先生を取り巻く環境は改められなければならない。
小学四年から中学三年までにいじめられずに済んだ子どもは一割未満だったとの調査がある。不完全な人間にはいじめの根絶は容易ではない。だからこそ先生や親は人一倍注意を払っておかなければならないだろう。
女児の母親がフィリピン出身だったこともいじめの誘因だという。親の差別的な思いが子どもに反映していなかったか。女児の学級が崩壊状態だったことを知っていたのか。女児の自殺は親たちも心を研ぎ澄ませていじめに立ち向かうべきことを教えている。
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