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大阪地検特捜部の証拠改ざん事件で検察への信頼は地に落ちた。影響はひとり検察にとどまらない。国民の不信や疑念がこの先、司法の領域全般に広がっていく恐れがある。この仕事に携[記事全文]
校長先生が頭を下げるのを、最近ニュースでよく見る。中間試験で「校長を殺したのはだれ?」と出題した高校教師。道徳の授業で「脅迫文」を作らせていた小学校教師……。小中高を合[記事全文]
大阪地検特捜部の証拠改ざん事件で検察への信頼は地に落ちた。
影響はひとり検察にとどまらない。国民の不信や疑念がこの先、司法の領域全般に広がっていく恐れがある。この仕事に携わる人々は、危機感を共有し、足元を固め直す必要がある。
何より考えるべきは裁判所だ。
今回のような暴走を許したのは、検察の捜査と公判活動をチェックすべき裁判所が、その機能を発揮せずにきたことにも原因があるのではないか。そんな指摘が方々から出ている。
法廷で被告や証人の言うことが、捜査段階で検察官が作った調書と食い違う。そんな場合、調書の内容に軍配をあげる。特捜事件に限らず、よく見聞きする話だ。裁判官は他の証拠も検討して判断した結果だと言うだろうし、実際、法廷での供述がうそという例も多いと思われる。
だが一方で、裁判所の中からも「検察官の主張に沿う方向できれいに整えられた調書と、それに寄りかかった詳細な事実認定には違和感をもつ」という疑問や批判が聞こえてくる。
同じ公務員である検察官への過度な信頼。証拠隠滅の疑いを理由に認められる長期の身柄拘束……。検察側の事情をくんだ運用が続いてきたのは否定できないのではないか。
折しも裁判員制度が始まり、調書ではなく、法廷で直接見聞きした証拠に基づいて判断しようという機運が強まっている。裁判の原則への回帰といえるだろう。最高検による事件の検証も踏まえ、裁判所は従来の仕事のあり方や発想を見直す好機とするべきだ。
弁護士はどうだろう。
優れた弁護士、頭の下がる取り組みをしている弁護士は多い。しかし、全体を見渡したとき、本来求められる水準の弁護活動を実践してきたかとなると少なからぬ疑問がある。
十分準備をしないまま公判に臨む。おざなりの反証にとどまり、見かねた検察官や裁判官の助けを借りて、ようやく格好を整える。そんな「甘え」が検察優位の構造を生み、刑事司法をゆがめた面はなかったか。
将来に目を転じれば、弁護士の数が増えて競争が激しくなるなか、今回問われた法律家の倫理をどう保つかという課題も横たわる。
司法が信頼を失い基盤が損なわれると、真に困るのは法律家ではなく、司法に救済や解決を求める国民である。民事事件も刑事事件も同じだ。
少数者の人権を擁護し、社会的公正を実現する。多数決や経済合理性だけではこぼれ落ちてしまう大切な価値を守るのが、民主主義社会の司法の使命であり誇りであるはずだ。
この問題意識を胸に、司法の担い手はそれぞれの立場で目の前の難局に向き合ってもらいたい。
校長先生が頭を下げるのを、最近ニュースでよく見る。中間試験で「校長を殺したのはだれ?」と出題した高校教師。道徳の授業で「脅迫文」を作らせていた小学校教師……。
小中高を合わせると、日本には100万人の先生がいる。問題を起こすのはほんの一握りだ。中には、もとから適性がない人もいただろう。
だが、いくつものデータから浮かびあがるのは、子どもの心を傷つけたり常識を外れたりするような行動を、同僚が戒めたり、助言したりできぬほどに疲れきった教師集団の姿だ。
職員室を取材に訪ねると、ネットカフェのようだと感じることがある。日が暮れた後も、ポッ、ポッと明かりがともったパソコン画面に、先生たちが黙々と向かう。教育委員会への報告づくりや、給食費の管理といった事務作業に追われどおしなのだ。
文部科学省の2006年度の調査では、1カ月あたりの残業は42時間と、40年前の5倍に増えた。子どものトラブルや保護者の注文、外国人の子の増加。先生たちの仕事は膨らむ一方なのに、財政難で教員定数は抑えられている。頭数だけでも増やそうと、自治体は安い給料で済む非正規教員の採用に動いている。
心を病んでの休職は増え続け、希望を失う先生もいる。公立小中高で毎年1万2千人以上が中途退職し、1年以内に教壇を去った新人先生は昨年度、過去最多の317人だった。
これでは、先生をめざす優秀な若者が減るのも無理はない。都市部では採用試験の倍率低下が深刻だ。教育をとりまく様々な問題の中でも、「教師の危機」はあまりに深刻ではないか。
余裕とともに失われているのは、先生同士が切磋琢磨(せっさたくま)し、互いに高め合う「教師文化」だと、ベテラン先生はいう。先輩が経験を語り、若手は相談を持ちかける。共に授業研究をし、工夫する。かつては、そんな中で問題を抱えた先生も見つけられたという。ところが今や、職員室のコミュニケーションすら乏しくなっている。
問題を起こした当人への適切な措置とともに、研修体制や先生間の連携を見直す。そのうえで、あらためて学校を、先生自身が学び合い、育つことができる場にしてゆこう。地域の人の知恵や力も、もっと借りたらよい。
「先生の数と質」の改善を急ぐべきだ。だが文科省が計画する少人数学級実現には、財務省が難色を示す。教員の養成・採用・研修をどう変えるかの議論も、時間がかかっている。問題教師排除の発想で始められた免許更新制の先行きは、不透明なままだ。
先生を批判し、追いつめるだけでは希望は見えてこない。子どものためにこそ、先生たちのゆとりを取り戻せる改革を応援したい。